本願寺名古屋別院

名古屋市中区にある仏教寺院

本願寺名古屋別院ほんがんじなごやべついん)は、愛知県名古屋市中区門前町にある浄土真宗本願寺派寺院

本願寺名古屋別院

本堂地図
所在地 愛知県名古屋市中区門前町1-23
位置 北緯35度9分25.6秒 東経136度53分58.4秒 / 北緯35.157111度 東経136.899556度 / 35.157111; 136.899556座標: 北緯35度9分25.6秒 東経136度53分58.4秒 / 北緯35.157111度 東経136.899556度 / 35.157111; 136.899556
宗旨 浄土真宗
宗派 浄土真宗本願寺派
本尊 阿弥陀如来
創建年 明応年間(1492年 - 1500年
開基 連淳
別称 西別院、西本坊、西本願寺掛所、西掛所
公式サイト 本願寺名古屋別院(西別院)
法人番号 9180005000333 ウィキデータを編集
本願寺名古屋別院の位置(愛知県内)
本願寺名古屋別院
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真宗大谷派「東別院」に対して、「西別院」と通称される。

歴史

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伊勢国長島杉江に創建された願証寺が断絶した後、本願寺第11世宗主の顕如織田信雄に願い出て清須の地に願証寺を再興するが、名古屋城築城による慶長14年(1609年)の清洲越し清洲城下が丸ごと名古屋に移った際に、それに伴って現在地へ移転した。だが長島・桑名門徒が桑名への移転を請うていた事もあって、願証寺は慶長20年(1615年)までに伊勢国桑名に寺基を移転し、同時に長島と松阪に通寺を設けた。この時に旧名古屋願証寺は桑名願証寺の通寺とされた。

正徳14年(1715年)、桑名願証寺住職・琢誓真宗高田派に転派した事で起きた門徒の混乱により、同寺と3つの通寺は江戸幕府に没収された。が、享保2年(1717年)の琢誓の追放により幕府より返却される。そして名古屋の願証寺通寺は西本願寺の末寺となり、名古屋御坊と呼ばれるようになる。翌年以降は本願寺門主が名目上の住職となって、輪番制で守護役を置く事になった。

尾張徳川家3代藩主徳川綱誠の側室・梅昌院は本願寺との縁が深く、享保15年(1730年)に亡くなった際には御霊屋が奉られ、侍女21人の墓もその回りに置かれた。また、文化14年(1817年)には葛飾北斎が境内において、120畳敷の紙に「大達磨」を描く興行を行った記録が残されている。絵そのものは戦災で失われた。

近代

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  • 明治6年(1873年)- 医学講習所(後の名古屋大学医学部)が置かれる。
  • 明治9年(1879年)- 名古屋御坊から「本願寺名古屋別院」と改称。
  • 昭和20年(1945年)- 5月17日空襲で、ほとんどの建物を焼失。
  • 昭和47年(1972年)- 本堂を再建(古代印度中天竺様式)する。

境内

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アクセス

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脚注

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  1. ^ a b c アクセス”. 本願寺名古屋別院. 2019年10月17日閲覧。

参考資料

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関連項目

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外部リンク

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