達磨
菩提達磨(ぼだいだるま、中国語: 达摩、サンスクリット語: बोधिधर्म, bodhidharma、ボーディダルマ)は、中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。達磨、達磨祖師、達磨大師ともいう。「ダルマ」というのは、サンスクリット語で「法」を表す言葉。『洛陽伽藍記[1]』や『続高僧伝 [2]』など唐代以前のものは達摩とも表記する。画像では、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多い。
達磨 | |
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生没年不詳 | |
諡号 | 聖冑大師、円覚大師 |
生地 | 南天竺国 |
没地 | 中国 |
宗派 | 中国禅宗初祖とされる |
師 | 般若多羅(『景徳伝燈録』第2巻) |
弟子 | 道育・慧可(『続高僧伝』巻第十六) |
生涯
編集菩提達磨についての伝説は多いが、その歴史的真実性には多く疑いも持たれている。南天竺[注 1]国王の第三王子として生まれ、般若多羅の法を得て仏教の第二十八祖菩提達磨になったということになっている。しかしそれよりも古い菩提達磨への言及は魏撫軍府司馬楊衒之撰『洛陽伽藍記』卷一 永寧寺の条(547年)にあり、全ての達磨伝説はここに始まるともいわれている。
時有西域沙門菩提達摩者、波斯國胡人也。起自荒裔、來遊中土。
極佛境界、亦未有此、口唱南無、合掌連日。 — 『洛陽伽藍記』巻一永寧寺条
見金盤炫日、光照雲表、寶鐸含風、響出天外。歌詠讚歎、實是神功。自云、年一百五十歳、歴渉諸國、靡不周遍、而此寺精麗、閻浮所無也。
このころ西域の僧で菩提達摩という者がいた。波斯国(サーサーン朝ペルシア)生まれの胡人であった。彼は遥かな夷狄の地を出て、中国へ来遊した。
自身が言うところでは、齢150歳で、もろもろの国を歴遊して、足の及ばない所はないが、この永寧寺の素晴らしさは閻浮提にはまたと無い、たとえ仏国土を隈なく求めても見当たらないと言い、口に「南無」と唱えつつ、幾日も合掌し続けていた。
永寧寺の塔の金の承露盤が太陽に輝いて、その光は雲の上までも照らし、また宝鐸が風を受けて鳴り、その響きは天の彼方までも出ずるさまに出会い、讃文を唱えて、まことに神業だと讃嘆した。
弟子の曇林が伝えるところ[3]によると、菩提達磨は西域南天竺国において国王の第三王子として生まれ、中国で活躍した仏教の僧侶。5世紀後半から6世紀前半の人で、道宣の伝えるところによれば南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に宋境南越にやって来たとされている[4]。
北宋時代の景徳年間(1004 - 1007年)に宣慈禅師道原によって編纂され禅宗所依の史伝として権威を持つに至った『景徳伝燈録[5]』になると、菩提達磨は中華五祖、中国禅宗の初祖とされる。この灯史によれば釈迦から数えて28代目とされている。南天竺国香至[注 2]王の第三王子として生まれる[6]。中国南方へ渡海し、洛陽郊外の嵩山少林寺にて面壁を行う。確認されているだけで道育、慧可の弟子がいる。彼の宗派は当初楞伽宗(りょうがしゅう、楞伽経にちなむ)と呼ばれた。
普通元年(520年)、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。9月21日(10月18日)、広州に上陸。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。この書では南朝梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎えた。武帝は達磨に質問をする。
帝問曰「朕即位已來、造寺寫經度僧不可勝紀。有何功德。」
師曰「並無功德。」
帝曰「何以無功德。」
師曰「此但人天小果有漏之因、如影隨形雖有非實。」
帝曰「如何是真功德。」
答曰「淨智妙圓體自空寂、如是功德不以世求。」
帝又問「如何是聖諦第一義。」
師曰「廓然無聖。」
帝曰「對朕者誰。」
師曰「不識。」
帝不領悟。師知機不契、是月十九日,潛回江北。 — 『景徳伝灯録』巻三
帝は質問した。「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか。」
師は言った。「どれも功徳はありません。」
帝は言った。「どうして功徳がないのか。」
師は言った。「これらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因です。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではありません。」
帝は言った。「真の功徳とはどのようなものだろうか。」
答えた。「浄智は妙円ですが、その本体はそもそも空です。このように功徳は俗世間で求められるものではありません。」
帝はまた質問した。「聖諦の根本的意味はどのようなものだろうか。」
師は言った。「この世はがらんどうで、聖なるものなどありません。」
帝は言った。「では朕と対座しているのは誰なのか。」
師は言った。「認識できません。」
帝はその意を理解できなかった。師は機縁が合わなかったと知り、この月の19日にひそかに江北に帰った。
後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかった。
達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされている[7]が、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もある。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことである。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる『坐禅の定義』[8]などに継承されている。
大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って[注 3]決意を示し、入門を求めた。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めた。この慧可が禅宗の第二祖である。以後、中国に禅宗が広まったとされる。[10]
永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされる[11][注 4]。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう[12][13]。諡は円覚大師[14]。
一方『景徳伝燈録』は達磨没後の道教の尸解に類した後日譚を伝える[15]。中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは達磨の遷化から3年後、西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原の葱嶺という場所で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり履き物を片方だけ手にして歩いており、宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る」と答えたという。また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。宗雲は帰国してからこのことを話してまわった。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を開けさせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。
二入四行論について
編集彼の事績、言行を記録した語録とされるものに『二入四行論』がある。柳田聖山によれば『二入四行論』が達磨に関する最も古い語録で達磨伝説の原型であるとともに達磨の思想を伝えるとされている。敦煌文書を基にした復元された『達摩二入四行論[注 5]』に登場する三蔵法師が、菩提達摩その人だと信じられている。これは、いくつかの既存の禅宗の文献を部分として含む重要な文献だとされている。しかし伊吹敦は『二入四行論』の内容を精査分析し、これが菩提達磨の教説ではなく中国人にしか書けないものであると報告している[16]。さらに伊吹敦は『二入四行論』の作者は誰かという問題に挑み、慧可であろうと推定している[17]。
影響
編集達磨により中国に禅宗が伝えられ、それは六祖慧能にまで伝わったことになっている。さらに臨済宗・曹洞宗などの禅宗五家に分かれる。日本の宗教にも大きな影響を及ぼした。
禅宗では達磨を重要視し、「祖師」の言葉で達磨を表すこともある。禅宗で「祖師西来意」(そしせいらいい:達磨大師が西から来た理由)と言えば、「仏法の根本の意味」ということである。
達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができた。これは『福だるま』と呼ばれ縁起物として現在も親しまれている。
関連文献
編集- 『禅の語録1 達磨の語録 二入四行論』、柳田聖山著、1969年 筑摩書房 (復刊)1996年 ちくま学芸文庫、ISBN 4-480-08309-X 。第2版 2016年 筑摩書房 ISBN 978-4-480-32301-9
- 『人類の知的遺産16 ダルマ』、柳田聖山著、1981年 講談社 (復刊)『ダルマ』1998年 講談社学術文庫、ISBN 978-4061593138
- 『達磨からだるま ものしり大辞典』中村浩訳・著、社会評論社刊(2011年7月)、ISBN 978-4-7845-1903-3
達磨を題材にした作品
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 547年楊衒之撰。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:洛陽伽藍記/卷一
- ^ 645年道宣撰。大正新脩大蔵経 T2060_.50.0551b27 。
- ^ 『菩提達磨大師略辨大乘入道四行觀 弟子曇琳序』に「法師者、西域南天竺國人、是婆羅門國王第三之子也。神慧疏朗、聞皆曉悟。志存摩訶衍道、故捨素隨緇、紹隆聖種。冥心虚寂、通鑒世事、内外倶明、德超世表。」とある。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:達摩四行觀(略称)
- ^ 『続高僧伝』巻第十六「菩提達摩。南天竺婆羅門種。神慧疎朗。聞皆曉悟。志存大乘冥心虚寂。通微徹數定學高之。悲此邊隅以法相導。初達宋境南越。末又北度至魏。隨其所止誨以禪教。」(大正新脩大蔵経 T2060_.50.0551b27 - c26)
- ^ 第三巻 菩提達磨の条。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:傳燈錄/03
- ^ 『続高僧伝』では「婆羅門種」となっていたのが「姓刹帝利」クシャトリヤの一族に変わる。
- ^ 『景徳伝燈録』第三巻に「 … 寓止於嵩山少林寺。面壁而坐,終曰默然,人莫之測。謂之壁觀婆羅門。 … 略 … 迄九年已,欲西返天竺。… 」とある。
- ^ 坐禅の定義[疑問点 ]
- ^ 水野弘元「菩提達摩の二入四行説と金剛三昧経」『駒澤大學研究紀要』第13号、1955年3月、49-50頁、ISSN 0452361X。
- ^ 瑩山紹瑾『伝光録』第二十九章を参照。
- ^ 大川普済『五灯会元』より(上記の伝光録の記述とは矛盾する)。
- ^ 道元『正法眼蔵』第二十五「渓声山色」。
- ^ 瑩山紹瑾『伝光録』第二十八章「菩提達磨章」。
- ^ 影山純夫『禅画を読む』淡交社、2011年3月、18頁。ISBN 978-4-473-03726-8。
- ^ 第三巻 菩提達磨伝の末尾に「後三歳、魏宋雲奉使西域回、遇師於葱嶺、見手攜隻履、翩翩獨逝。雲問師何往。師曰「西天去。」又謂雲曰「汝主已厭世。」雲聞之茫然。別師東邁。既復命、即明帝已登遐矣。而孝荘即位、雲具奏其事。帝令啓壙。惟空棺一隻革履存焉」
- ^ 伊吹敦「『二入四行論』の成立について」(PDF)『印度學佛教學研究』第55巻第1号、日本印度学仏教学会、2006年、127-134頁、doi:10.4259/ibk.55.127、ISSN 00194344。
- ^ 伊吹敦「『二入四行論』の作者について--「曇林序」を中心に」『東洋学論叢』第32号、東洋大学文学部、2007年3月、204-185頁。
- ^ 文芸家協会 (1924). 日本戯曲集. 東京: 新潮社
関連項目
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