本多釣月
江戸時代後期の福井藩の家老
本多 釣月(ほんだ ちょうげつ)は、江戸時代後期(幕末)の福井藩の家老。高知席本多修理家第10代。諱は敬義。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 文化12年10月15日(1815年11月15日)[1] |
死没 | 明治39年(1906年)5月25日 |
別名 | 通称:四郎右衛門、鋭次郎、大蔵、修理、諱:敬義、号:復斎、東葵、隠居後:波釣月 |
官位 | 従四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 松平慶永、直廉 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:菅沼高次、養父:本多方恭 |
兄弟 | 菅沼寛次、本多釣月 |
妻 | 松平主馬の娘・也知 |
子 |
貴一(正克)、衣(本多精二夫人) 養子:渓南(正済) |
福井藩士菅沼左門高次の子として生まれる。天保2年(1831年)福井藩家老本多方恭の養子となる。天保6年(1835年)養父方恭の隠居により家督知行2800石を相続。方恭の孫源四郎を養子とする。後に源四郎は1300石で別家した。嘉永2年(1849年)に家老となり藩主・松平慶永に仕えた。慶永の藩政改革のブレーンのひとりとして活動し、主に軍制改革で功績を挙げた。
安政の大獄で慶永が隠居した後は養子の松平直廉に仕え、第1次長州征伐では幕府軍の副総督となった直廉の軍事総奉行として小倉まで従軍した。明治時代に入ると再び慶永(春嶽)に仕え、側近として活動する。しかし老齢を理由にやがて隠棲した。
脚注
編集参考文献
編集- 本多修理著、谷口初意校訂、大久保利謙解題『越前藩幕末維新公用日記』(福井県郷土誌懇話会、1974年)