平山成信
日本の官僚
(平山竹渓から転送)
平山 成信(ひらやま なりのぶ[1]、嘉永7年11月6日(1854年12月25日) - 昭和4年(1929年)9月25日)は、日本の官僚。内閣書記官長、内閣総理大臣秘書官[2]、貴族院勅選議員、宮中顧問官、枢密顧問官等を歴任。男爵。
人物
編集幕臣・奥右筆頭、竹村久成の子として東京生まれ、幕臣・神道家の平山省斎(敬忠)養嗣子となる[3]。農商務省・外務省・大蔵省などの勤務を経て、第1次松方内閣・第2次松方内閣で内閣書記官長を務める。1894年(明治27年)1月23日、貴族院議員に勅選され[4]、1919年(大正8年)10月27日、枢密顧問官に就任し[5]、同年11月5日、貴族院議員を辞職した[6]。1908年11月7日、宮中顧問官兼別当(有栖川宮付)に任じられる[7]。1911年7月8日、宮中顧問官を辞任したが[8]、1912年3月13日に宮中顧問官を兼任した[9]。1913年11月11日、別当を辞し宮中顧問官の専任となる[10]。
第5代日本赤十字社社長。また、帝国女子専門学校(現・相模女子大学)の設立にも携わり、校長に就任した。1924年に男爵に叙される。1929年9月25日、胃癌のため76歳で死去[11]。
栄典
編集- 位階
- 1881年(明治14年)8月30日 - 従六位[12]
- 1884年(明治17年)6月30日 - 正六位[12][13]
- 1891年(明治24年)
- 1897年(明治30年)3月22日 - 正四位[12][16]
- 1898年(明治31年)9月20日 - 従三位[12][17]
- 1911年(明治44年)6月30日 - 正三位[12][18]
- 1918年(大正7年)7月10日 - 従二位[12][19]
- 1927年(昭和2年)12月15日 - 正二位[12][20]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)6月19日 - 勲六等瑞宝章[12][21]
- 1892年(明治25年)6月29日 - 勲五等瑞宝章[12][22]
- 1893年(明治26年)12月28日 - 勲四等瑞宝章[12][23]
- 1899年(明治32年)12月27日 - 勲三等瑞宝章[12][24]
- 1903年(明治36年)12月14日 - 旭日中綬章[12][25]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章[12]
- 1911年(明治44年)6月19日 - 金杯一組[12]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[12]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正)[12][26]
- 1916年(大正5年)5月25日 - 金杯一組[12]
- 1918年(大正7年)3月28日 - 勲一等瑞宝章[12][27]
- 1919年(大正8年)2月11日 - 金杯一個[12]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 大正三年乃至九年戦役従軍記章・金杯一個[12]
- 1924年(大正13年)2月11日 - 男爵[12][28]
- 1925年(大正14年)1月14日 - 御紋付銀杯[12][29]
- 1926年(大正15年)2月25日 - 旭日大綬章[12][30]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)[12]
- 1929年(昭和4年)9月25日 - 旭日桐花大綬章[31]・帝都復興記念章[12][32]
- 外国勲章佩用允許
親族
編集脚注
編集- ^ 『平成新修旧華族家系大成』は「しげのぶ」と読む。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』25頁。
- ^ 『日本近現代人物履歴事典』434頁。
- ^ 『官報』第3169号、明治27年1月24日。
- ^ 『官報』第2170号、大正8年10月28日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、28頁。
- ^ 『官報』第7612号、明治41年11月9日。
- ^ 『官報』第8414号、明治44年7月10日。
- ^ 『官報』第8618号、明治45年3月14日。
- ^ 『官報』第387号、大正2年11月12日。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)253頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 「平山成信」 アジア歴史資料センター Ref.A06051177200
- ^ 『官報』第301号「叙任及辞令」明治17年7月1日。
- ^ 『官報』第2326号「叙任及辞令」1891年4月6日。
- ^ 『官報』第2399号「叙任及辞令」1891年6月30日。
- ^ 『官報』第4113号「叙任及辞令」1897年3月23日。
- ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
- ^ 『官報』第8407号「叙任及辞令」1911年7月1日。
- ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1918年7月11日。
- ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
- ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」明治22年6月20日。
- ^ 『官報』第2701号「叙任及辞令」1892年6月30日。
- ^ 『官報』第3152号「叙任及辞令」明治26年12月29日。
- ^ 『官報』第4949号「叙任及辞令」明治32年12月28日。
- ^ 『官報』第6138号「叙任及辞令」明治36年12月16日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」大正5年12月13日。
- ^ 『官報』第1694号「叙任及辞令」1918年3月29日。
- ^ 『官報』第3439号「授爵・叙任及辞令」1924年2月13日。
- ^ 『官報』第3717号「宮廷録事 - 恩賜」1925年1月15日。
- ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1926年2月27日。
- ^ 『官報』第826号「叙任及辞令」1929年09月28日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第7333号「叙任及辞令」1907年12月6日。
- ^ 『官報』第93号「叙任及辞令」1927年4月23日。
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』下巻、423-424頁。
参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
関連項目
編集公職 | ||
---|---|---|
先代 伊藤博邦(→欠員) |
有栖川宮附別当 1908年 - 1913年 |
次代 (廃止) |
先代 (新設) |
大蔵省官房長 1900年 |
次代 石塚重平 |
先代 岡倉覚三 |
帝国博物館美術部長 1898年 - 1900年 |
次代 今泉雄作 東京帝室博物館美術部長 |
先代 栗原亮一 |
大蔵省参与官 1898年 - 1900年 |
次代 (廃止) |
先代 伊東巳代治 |
枢密院書記官長 1892年 - 1894年 |
次代 平田東助 |
その他の役職 | ||
先代 西沢之助 |
帝国女子専門学校長 帝国女子専門学校附属日本高等女学校長 1913年 - 1929年 |
次代 平山洋三郎 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
静修女学校長 1915年 - 1929年 |
次代 平山洋三郎 校長事務取扱 |
先代 (新設) |
啓明会理事長 1918年 - 1929年 |
次代 大久保利武 |
先代 石黒忠悳 |
日本赤十字社社長 1920年 - 1929年 |
次代 徳川家達 |
先代 (新設) |
博物館事業促進会会長 1928年 - 1929年 |
次代 林博太郎 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 平山(成信)家初代 1924年 - 1929年 |
次代 平山洋三郎 |