石塚 重平(いしづか じゅうへい、安政2年10月10日1855年11月19日[1] - 明治40年(1907年8月12日[2])は、日本の衆議院議員自由党立憲政友会甲辰倶楽部大同倶楽部)。

石塚重平

経歴

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信濃国佐久郡小諸城下(現在の長野県小諸市)の商家に生まれる。1877年(明治10年)に盤鴻社という政社を結成して、政談会や討論会を開催して自由民権運動を推進した[1]。また小諸町会議員や北佐久郡会議員に選出され、布施銀行や小諸銀行の設立にも関わった[1]

1881年(明治14年)、自由党の創設に加わったが、1884年(明治17年)に自由党は大阪で解党を決定した。大阪からの帰途、内乱陰謀の嫌疑で逮捕されるが程なく釈放された[1][3]。しかし翌年、大阪事件に関与したとして逮捕され、1887年(明治20年)に有罪判決を受けた[3]1889年(明治22年)に憲法発布の恩赦で釈放されると、大同団結運動に加わり、再興された自由党の幹事に就任した[3]

 
養蓮寺境内の頌徳碑

1894年(明治27年)、第4回衆議院議員総選挙に出馬して当選した。立憲政友会創立に参加し、1900年(明治33年)に総裁の伊藤博文が内閣を組織すると大蔵省官房長に任命された[3]。しかし翌年に第4次伊藤内閣が倒れるとともに辞職し、衆議院補欠選挙に出馬して当選した[3]1902年(明治35年)の第7回衆議院議員総選挙でも当選したが、翌年に伊藤博文の総裁独裁制に反対して立憲政友会を離党した。その後、第9回衆議院議員総選挙で4回目の当選を果たすが、在職中に死去した。墓所は青山霊園。小諸市養蓮寺の境内に石塚の頌徳碑がある。

脚注

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  1. ^ a b c d 『大阪事件志士列伝 中編』95-101ページ
  2. ^ 官報』第7238号、明治40年8月14日
  3. ^ a b c d e 『現今日本名家列伝』い58-59ページ

参考文献

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  • 宮崎夢柳『大阪事件志士列伝 中編』小塚義太郎、1887年。 
  • 『現今日本名家列伝』日本力行会出版部、1903年。 

外部リンク

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