山中信儀
(山中信義から転送)
山中 信儀(やまなか のぶよし、1851年2月15日(嘉永4年1月15日[1][2][3])- 1926年(大正15年)4月18日[1][3][4][5][6])は、幕末から大正期の長州藩士、陸軍軍人、政治家。最終階級は陸軍中将。貴族院議員、男爵。信義の表記がある[7]。
経歴
編集長門国阿武郡萩城下(山口県阿武郡堀内村、萩町を経て現萩市堀内[5])で、長州藩士[注釈 1]・山中有利の長男として生れる[1][2]。四境戦争に従軍し、戊辰戦争では東北での戦いに加わった[5][6]。
明治4年12月26日(1872年2月4日)、陸軍少尉に任官[8][8]。西南戦争に従軍[1]。1893年(明治26年)5月、陸軍教導団長となり[8]、1894年(明治27年)12月、歩兵大佐に昇進[8]。1895年(明治28年)12月、歩兵第21連隊長に就任[8]。1896年(明治29年)9月、歩兵第19連隊長に異動し[8]、さらに同年11月、歩兵第37連隊長に転じた[8]。
1899年(明治32年)8月、陸軍少将に進級し台湾守備混成第2旅団長に就任[3][8]。1901年(明治34年)7月、歩兵第10旅団長に発令され[3][8] 日露戦争に出征。旅順攻囲戦、奉天会戦などを戦った[3]。
1905年(明治38年)7月、陸軍中将に進み新設の第16師団長に親補された[3][8]。1907年(明治40年)9月21日、日露戦争の功績により男爵を叙爵し華族となった[1]。1913年(大正2年)1月、後備役に編入[3][8]。1918年(大正7年)4月1日に退役した[9]。
1918年7月10日、貴族院男爵議員に選出され[10]、公正会に所属して活動し1925年(大正14年)7月9日まで1期在任した[4]。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
親族
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『増補 近世防長人名辞典 第2刷』265頁では、萩藩の老臣児玉小民部の家中。
出典
編集- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成 下巻』803-804頁。
- ^ a b 『人事興信録 第4版』や48頁。
- ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』769頁。
- ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』88頁。
- ^ a b c 『防長人物百年史』216頁。
- ^ a b 『増補 近世防長人名辞典 第2刷』265頁。
- ^ 『防長人物百年史』216頁、『増補 近世防長人名辞典 第2刷』265頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』32頁。
- ^ 『官報』第1702号、大正7年4月9日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、26頁。
- ^ 『官報』第3485号「叙任及辞令」1895年2月14日。
- ^ 『官報』第7046号「叙任及辞令」1906年12月22日。
- ^ 『官報』第150号「叙任及辞令」1913年1月31日。
- ^ 『官報』第550号「賞勲叙任」1885年5月5日。
- ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第4029号・付録「辞令」1896年12月2日。
- ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 末弘錦江『防長人物百年史』山口県人会、1966年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
- 吉田祥朔『増補 近世防長人名辞典 第2刷』マツノ書店、2002年。
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