多久茂堯
多久 茂堯(たく しげたか)は、江戸時代中期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)7代当主。
多久茂堯 | |
時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保元年10月27日(1716年12月10日) |
死没 | 明和6年8月6日(1769年9月5日) |
別名 | 長門 |
墓所 | 佐賀県多久市円通寺 |
主君 | 鍋島宗教、重茂 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 後多久氏(多久鍋島家) |
父母 | 多久茂明、多久茂文次女・曽雄 |
妻 |
鍋島直英娘・千吉 山中氏、田中氏 |
子 | 兼連、茂孝、茂鄰、鍋島茂郷 |
略歴
編集多久茂明の長男として誕生。
元文3年(1738年)、藩の当役(請役家老)となる。元文5年(1740年)9月15日、小城藩主・鍋島直英の娘千吉と結婚する。千吉とは母親同士が姉妹であった。
寛延2年(1749年)12月、佐賀藩主・鍋島宗教を引き下ろそうとする陰謀に加担したとして、諫早茂行が一万石減封の上、蟄居となる。寛延3年(1750年)1月、正室の於久米(千吉)と離縁した。6月、減封に反発する諫早家中や領民による諫早一揆(諫早騒動)が起こり、8月に藩命で兵を率いて一揆を鎮圧した。明和4年(1767年)6月、藩政総督を命じられる。
明和6年(1769年)5月に病により職を辞し、8月6日死去した。享年54。菩提寺の円通寺に葬られた。