内藤頼多
内藤 頼多(ないとう よりた)は、江戸時代中期の信濃国高遠藩の世嗣。官位は従五位下・駿河守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛保元年3月10日(1741年4月25日) |
死没 | 明和8年11月18日(1771年12月23日) |
改名 | 松平勝邦、内藤頼多 |
別名 | 弥門 |
戒名 | 至養院 |
官位 | 従五位下駿河守 |
藩 | 尾張藩、信濃高遠藩世嗣 |
氏族 | 尾張徳川家、内藤氏 |
父母 |
徳川宗勝、馬場氏娘・お登世の方 内藤頼由 |
兄弟 |
房姫、徳川宗睦、松平義敏、豊姫、 松平義当、松平勝長、松平勝綱、 竹腰勝起、邦姫、井上正国、頼多、勝鷹、品姫、恭姫、陽姫、内藤政脩ら15男11女 |
妻 | 秋田定季娘・富姫 |
子 | 長好 |
略歴
編集尾張藩主・徳川宗勝の十二男として誕生。母は側室のお登世の方(清光院、馬場氏)。正室は秋田定季の娘・富姫。子は長好(長男)。
内藤頼寛が早世したため、宝暦11年(1761年)に内藤頼由の養子となる。しかし、頼寛同様に家督を継ぐことなく夭逝した。代わって、越後国村上藩から頼尚が養子として迎えられ、嫡子となった。