内藤頼由
内藤 頼由(ないとう よりゆき)は、信濃高遠藩の第3代藩主。高遠藩内藤家8代。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永5年(1708年) |
死没 | 安永9年5月28日(1780年6月30日) |
改名 | 永井尚達(初名)、頼由 |
別名 | 永井左京[1] |
戒名 | 源隆院殿興誉尉山道翁大居士 |
墓所 | 東京都新宿区新宿の太宗寺 |
官位 | 従五位下、大和守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 信濃国高遠藩主 |
氏族 | 永井氏→内藤氏 |
父母 |
父:永井直敬、母:永井直右の娘 養父:内藤頼卿 |
兄弟 | 永井尚平、永井直陳、永井尚方、頼由 |
妻 | 正室:松平康豊の娘 |
子 |
吉十郎 養子:頼寛、頼多、頼尚 |
生涯
編集宝永5年(1708年)、信濃飯山藩主(のちに武蔵岩槻藩主)・永井直敬の六男として生まれる(生年には宝永6年(1709年)1月7日説もある)。享保20年(1735年)に高遠藩の第2代藩主・内藤頼卿に実子がなかったため、末期養子として迎えられ家督を継いだ。
元文4年(1739年)に大坂加番、延享3年(1746年)から安永4年(1775年)まで奏者番を務めている。藩政では財政問題のため、元文2年(1737年)12月に藩士に対して従来の金給制から俸禄制に改めた[1]。他にも支給方法の改正などを行なっている[2]。
安永5年(1776年)、養子の頼尚に家督を譲って隠居する。安永9年(1780年)5月28日(異説として5月27日)に死去。享年73。
系譜
編集父母
正室
- 松平康豊の娘
子女
- 内藤吉十郎
養子
脚注
編集参考文献
編集- 長谷川正次『高遠藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2005年11月。ISBN 476847103X。