今川直房

日本の江戸時代前期の武士。歌人今川範以長男で、高家旗本今川氏初代当主(駿河今川氏13代当主)。従四位下左近衛少将。公卿や門跡の接待役・京都御所使節等を歴任

今川 直房(いまがわ なおふさ)は、江戸時代前期の旗本今川家13代当主[注釈 2]今川範以の子。江戸幕府に仕え、高家今川家初代当主となった。初名は範英(のりひで)。

 
今川 直房
時代 江戸時代前期
生誕 文禄3年(1594年[注釈 1]
死没 寛文元年11月24日1662年1月14日
改名 範英→直房
別名 五郎、主膳、主膳正(通称
戒名 浄岑院殿松山青公大居士
墓所 東京都杉並区和田長延寺
官位 従五位下侍従刑部大輔従四位下左近衛少将
幕府 江戸幕府高家旗本
主君 徳川秀忠家光家綱
氏族 清和源氏足利氏今川氏
父母 父:今川範以、母:吉良義安娘・利正院
兄弟 直房西尾以庸吉良義弥室、大友義親
正室:立花宗茂の養女(矢島重成の長女・菜緒)
範明範興大久保忠高正室、某、松平勝広正室
養子:氏堯
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生涯

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高家就任

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文禄3年(1594年)、今川範以の嫡子として京都に生まれる。

慶長12年(1607年)に父が病没し、母が公家大炊御門経頼と再婚したため、兄弟とともに祖父・今川氏真に養育される。慶長16年(1611年)12月、江戸幕府2代将軍徳川秀忠にはじめて拝謁する。

慶長18年(1613年)、大御所徳川家康江戸城で越年した際に今川氏真はたびたび家康の元に出仕していたが、その際に祖父に同行している[1]。翌年、祖父が死去したため、その家禄500石を継ぐ。

寛永10年(1633年)12月には江戸参府中の知恩院門跡良純法親王の接待を行っており、この頃までには高家の職務を果たしていたと考えられる[注釈 3]

寛永11年(1634年)6月9日には仰せを受け、3代将軍・徳川家光の上洛の先発として京都に赴く。寛永13年(1636年)4月に家光が日光東照社に参詣した際には吉良義冬とともに衣紋の役を勤めた。同年12月29日に従五位下・侍従に叙任され(のち刑部大輔兼任)、将軍が出御する際の衣紋の役・太刀の役、公卿門跡が江戸に参府した際の接待役、京都御所への使節や伊勢神宮日光東照社(東照宮)への代参使など、高家としての職務をこなしている。

東照大権現宮宣下

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元和2年(1616年)、徳川家康の死去にともない、朝廷は家康に東照大権現の神号を宣下していたが、家光は宮号宣下を朝廷に求めた。正保2年(1645年)、直房は大老酒井忠勝とともに使者となり、武家伝奏菊亭経季と交渉した結果、宣下が実現することとなり、同年12月3日に「東照宮」の宮号が宣下された。

直房が10月17日に江戸に帰還して交渉が成功したことの報告を行うと、この功績によって家光から武蔵多摩郡井草村(のち上井草村、下井草村に分かれる。現:東京都杉並区井草今川など)、上鷺宮村(現在:東京都中野区上鷺宮など)、豊島郡中村(現:東京都練馬区中村)の3か村500石を加増され、今川家の家禄は近江国野洲郡長島村(現:滋賀県野洲市長島)の500石と併せて1,000石となった。

直房は4代将軍徳川家綱の代にも活躍し、承応2年(1653年)10月28日には左近衛少将に任ぜられた。万治4年(1661年)1月、大火で御所が炎上したことの見舞いとして上洛したのが最後の京都御使となった。同年(5月に改元し寛文元年)11月24日死去、享年68[注釈 4]市谷長延寺(現在は、東京都杉並区和田に移転)に葬られた。

高家今川家の祖

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鎌倉時代室町時代も含めた今川氏歴代の中で、左近衛少将に昇ったのは直房だけである。直房は今川氏中興の祖として子孫から崇められ、命日には一族が集まって直房を偲んだという。

また、姉(妹ともいう。大友義親の妻で、夫の死後剃髪)とともに、祖父氏真・母利正院の墓を自らの知行地である井草村の観泉寺(現:東京都杉並区今川)に移し、観泉寺の開基を氏真として今川家代々の菩提寺とした。直房は氏真の弟一月長得が修行した長延寺の開基となっており、高家今川家代々の当主は長延寺に葬られている。

系譜

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『寛政重修諸家譜』によると、実子は3男2女である。嫡男範明と二男範興が早世したため、直房の妹の孫にあたる氏堯岡山弥清の子)に家督を継がせた。

父母
兄弟姉妹
子女

参考文献

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  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
  • 寛政重修諸家譜』巻第九十四

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』の享年から逆算。『今川系図』によると慶長6年(1601年)出生。
  2. ^ 家祖・国氏から数えた代数。
  3. ^ 寛永13年(1635年)12月29日に高家へ就任したことになっているが[2]、この日は直房の従五位・下侍従への叙任日であり[3]、すでに高家として扱われている。
  4. ^ 『今川系図』では享年60。

出典

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  1. ^ 黒田基樹「総論 今川氏真の研究」『今川氏真』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第三五巻〉、2023年9月、22頁。ISBN 978-4-86403-485-2 
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』および『今川系図』
  3. ^ 徳川実紀
  4. ^ a b c 『今川氏と観泉寺』