パトリックアンドレウジェーヌジョゼフデパイユ (Patrick André Eugène Joseph Depailler、1944年8月9日 - 1980年8月1日)は、フランスのレーシングドライバー。1971年フランス・フォーミュラ3選手権英語版1974年ヨーロッパF2選手権チャンピオン。

パトリック・デパイユ
基本情報
フルネーム パトリック・アンドレ・ウジェーヌ・ジョゼフ・デパイユ
国籍 フランスの旗 フランス
出身地 ピュイ=ド=ドーム県クレルモン=フェラン
生年月日 (1944-08-09) 1944年8月9日
没年月日 (1980-08-01) 1980年8月1日(35歳没)
F1での経歴
活動時期 1972, 1974-1980
所属チーム '72,'74-'78 ティレル
'79 リジェ
'80 アルファロメオ
出走回数 95
タイトル 0
優勝回数 2
表彰台(3位以内)回数 19
通算獲得ポイント 141
ポールポジション 1
ファステストラップ 4
初勝利 1978年モナコGP
最終勝利 1979年スペインGP
最終戦 1980年イギリスGP
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名前はデパイエドゥパイエドゥパイユドパイエとも表記されるが、発音記号[dəpaje]に基づいた場合ドゥパイエが最も近い発音となる。

経歴

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ピュイ=ド=ドーム県クレルモン=フェラン出身。

1973年以前

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F2マシンでニュルブルクリンクを走行するデパイユ(1970年)

元々は2輪でレース活動を行っていたが、その後4輪レースに転向。1967年よりフランスF3に参戦すると、1971年にはチャンピオンを獲得。

1972年にはティレルのサードドライバーとして、F1に2度スポット参戦。デビュー戦である第6戦フランスGPでは、周回不足により完走として扱われなかったが、最終戦アメリカGPでは11位で完走している。

1973年ヨーロッパF2にスポット参戦。前年同様ティレルからF1スポット参戦の予定もあったが、オートバイ事故で負傷し断念する。

1974年

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1974年より、ティレルよりF1にフル参戦を開始。開幕戦のアルゼンチンGPで6位に入り、初入賞。第7戦スウェーデンGPでは、予選でポールポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも2位に入り初の表彰台を経験。また、ファステストラップ(以下:FL)も記録している。

この他にも数回の入賞を記録したが、チームメイトのジョディー・シェクターは2勝を含む9度の入賞(表彰台6回)を記録しており、やや見劣りする結果となる。獲得ポイントでも、シェクターに31ポイント差をつけられることとなった。

この年はF1と平行しヨーロッパF2に参戦、4勝を挙げチャンピオンを獲得している。

1975年

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この年は前年と比較するとチームは不調となるが、そんな中でも第3戦南アフリカGPでの3位表彰台を含む5度の入賞を記録、入賞の総回数ではシェクターを上回った(シェクターは4度)。

しかし年間獲得ポイントでは、1勝を含む3度の表彰台を記録していたシェクターを、この年も下回ることとなった。

1976年

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1976年オランダグランプリティレル・P34をドライブするデパイユ

1976年もティレルから参戦。2位5回、3位2回、6位1回、FL1回という成績を残し、ランキング4位を獲得。結果的にこの4位は、自身最高の年間記録となった。

しかし、この年も1勝を含めデパイユを上回る入賞数を記録したシェクターに対し、獲得ポイントで後塵を拝すこととなった。また、何度も2位に入りながら優勝は出来なかったことから、「万年2位」との声も挙がるようになる。

この年は、チームが6輪車として知られるP34を途中投入した年でもある。まず第4戦スペインGPにて、デパイユ車のみに投入されることとなったため、デパイユは6輪マシンでF1に参戦した最初のドライバーとなった。

1977年

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1977年もP34で参戦するが、前年から一転、不調に陥り、シェクターに代わってティレルに加入したロニー・ピーターソン共々、苦しいシーズンを送ることとなる。

そんな中、3度表彰台に上がり、年間獲得ポイントでもピーターソンの7に対し20と、初めてチームメイトを上回った。

1978年

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1978年は開幕から好調であり、4戦中3戦で表彰台を記録すると、第5戦モナコGPで予選5位から初優勝。フル参戦5年目のことだった。

その後はリタイアが多くなり、開幕当初ほどの活躍は無かったが、5度の表彰台を含む7度の入賞で、チームメイトのディディエ・ピローニを圧倒している(ピローニは入賞5回であり、うち2度の5位が最高位だった)。

1979年

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1979年リジェから参戦。この年のマシン・JS11は開幕から好調、デパイユはチームメイトのジャック・ラフィットと共に活躍。予選では開幕から7戦中3回フロントローにマシンを並べるほか、第5戦スペインGPで自身2勝目を記録。第7戦モナコGP終了の時点で、ジル・ヴィルヌーヴと並んでランキング3位につけていた。

しかしその矢先、ハンググライダーで事故を起こし、両足を骨折。残りのレースを全てキャンセルすることとなり、シーズンを棒に振った。

結果的に15戦中7戦のみの出走となったが、最終的にランキング6位となっている。

1980年

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1980年アルファロメオから参戦。

開幕直後はマシンの戦闘力が低く、アルゼンチンGP予選23位/ブラジルGP21位と下位に沈む。

その後、デパイユのテストと提案により軽量化を含む大幅な改良を行った結果、第3戦南アフリカGPでは予選7位、第4戦アメリカ西GPでは予選3位を獲得し、高い開発能力を発揮した。しかし、マシンの信頼性が低く第8戦イギリスGPを終了した時点で、一度も完走を果たせずにいた。

事故死

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8月1日、デパイユとアルファロメオチームはドイツGPを9日後に控えたホッケンハイムリンクにて、マシンテストを行うことになった。しかし、テスト開始から間もなく、オストカーブ(後にシケインとなり、現在は廃止)でコースアウトしてクラッシュ。病院へと搬送されたが、救急車の中で死亡が確認された。即死の状態だったという。

テスト中の事故ということもあって目撃者がおらず、正確な事故原因は特定されていないが、空力パーツのトラブルによる可能性が高いとされている。

人物

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  • チェーンスモーカーだった。
  • マシンの開発能力を買われていた。
    • 1979年のリジェは、デパイユの離脱後急激に失速したが、デパイユによる開発を得られなくなったからとする意見もある。
    • 1980年のアルファロメオでは、決勝での完走はならなかったものの、当初後方グリッドに沈んでいたマシンを、中団グリッド以上に付けるまで進化させていた。
  • ティレルでチームメイトだったシェクターはデパイユについて「いいやつだったよ。典型的なフランス人という男で、最初のプラクティスで速かったら『クルマは文句なし』と言うのに、次のセッションで自分たちのタイムは同じでも他のドライバーが速くなってくると『全然ダメだ!』と言い出すんだ。一緒にいて楽しい男だった。コース上でもかなり速くて、モナコとかその他のいくつかのサーキットでは、僕より彼の方が速かったね」とコメントしている[1]
  • ティレル・P34について、6輪にするメリットについて懐疑的だったシェクターに対し、デパイユは新技術に好印象を抱いていたとされる。
  • 1977年の日本GPでは、優勝したジェームス・ハントと2位のカルロス・ロイテマンが表彰式をボイコットしたため、3位のデパイユとフェラーリのメカニック(ロイテマンの代理)の2人でシャンパンファイトを行っている。
  • 1980年、F1にステップアップしたばかりの後輩・アラン・プロストを気にかけ、パドックで何かと面倒を見たという。同年、プロストが故郷で結婚式を挙げたその日にデパイユは絶命し、プロストは死というものが身近にあることを悟ったと自伝で述べている。

レース戦績

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ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

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チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 順位 ポイント
1970年 Constructions Mécaniques Pygmée Pygmée MDB15 コスワース THR HOC BAR
DNQ
ROU
DNQ
PER
Ret
TUL IMO HOC NC 0
1971年 エキュイプ・テクノ・エルフ テクノ・TF71 HOC
Ret
THR
Ret
NÜR
21
JAR PAL
Ret
ROU
DNQ
MAN TUL
9
ALB
Ret
VLL VLL NC 0
1972年 エルフ・ジョン・コムブバス アルピーヌ・A367 MAL THR HOC
Ret
HOC
Ret
3位 27
マーチ・722 PAU
2
PAL
7
ROU
DNQ
ÖST
5
IMO
Ret
MAN
Ret
PER
2
SAL
7
ALB
2
HOC
Ret
1973年 アルピーヌ・A367 MAL HOC
2
THR
Ret
NÜR
3
PAU
Ret
KIN
2
NIV HOC ROU
6
MNZ
2
MAN
4
KAR PER
Ret
SAL
2
NOR ALB VLL 3位 38
1974年 マーチ・レーシングチーム マーチ・742 BMW BAR
2
HOC
4
PAU
1
SAL
DNQ
HOC MUG
1
KAR
2
PER
Ret
HOC
1
VLL
1
1位 54
1975年 プロジェクト・スリー・レーシング マーチ・752 EST THR HOC NÜR PAU
3
HOC SAL ROU MUG PER SIL ZOL NOG VLL NC 0
所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1972年 ティレル 004 ARG RSA ESP MON BEL FRA
NC
GBR GER AUT ITA CAN USA
7
NC
(24位)
0
1974年 005/006 ARG
6
BRA
8
RSA
4
ESP
8
MON
9
FRA
8
9位 14
007 BEL
Ret
SWE
2
NED
6
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
ITA
11
CAN
5
USA
6
1975年 ARG
5
BRA
Ret
RSA
3
ESP
Ret
MON
5
BEL
4
SWE
12
NED
9
FRA
6
GBR
9
GER
9
AUT
11
ITA
7
USA
Ret
9位 12
1976年 BRA
2
RSA
9
USW
3
4位 39
P34 ESP
Ret
BEL
Ret
MON
3
SWE
2
FRA
2
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
7
ITA
6
CAN
2
USA
Ret
JPN
2
1977年 P34B ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
3
USW
4
ESP
Ret
MON
Ret
BEL
8
SWE
4
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
13
NED
Ret
ITA
Ret
USA
14
CAN
2
JPN
3
9位 20
1978年 008 ARG
3
BRA
Ret
RSA
2
USW
3
MON
1
BEL
Ret
ESP
Ret
SWE
Ret
FRA
Ret
GBR
4
GER
Ret
AUT
2
NED
Ret
ITA
11
USA
Ret
CAN
5
5位 34
1979年 リジェ JS11 ARG
4
BRA
2
RSA
Ret
USW
5
ESP
1
BEL
Ret
MON
5
FRA GBR GER AUT NED ITA CAN USA 6位 20 (22)
1980年 アルファロメオ 179 ARG
Ret
BRA
Ret
RSA
NC
USW
Ret
BEL
Ret
MON
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER AUT NED ITA CAN USA NC
(29位)
0

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 車両 クラス 周回数 総合順位 クラス順位
1967年   ソシエテ デ オートモビル アルピーヌ   ジェラール・ラルース アルピーヌ・A210 P
1.15
204 DNF DNF
1968年   エキュリー・サヴィン-カルバーソン   マウロ・ビアンキ アルピーヌ・A220 P
3.0
257 DNF DNF
1969年   ソシエテ デ オートモビル アルピーヌ   ジャン=ピエール・ジャブイーユ P
3.0
209 DNF DNF
1970年   エクィップ マトラ-シムカ   ジャン=ピエール・ジャブイーユ
  ティム・シェンケン
マトラ-シムカ・MS650 P
3.0
70 DNF DNF
1971年   オートモビルス・リジェ   ギ・リジェ リジェ・JS3-フォード コスワース P
3.0
270 NC NC
1973年   エキップ・マトラシムカ シェル   ボブ・ウォレク マトラ・シムカ・MS670B S
3.0
84 DNF DNF
1977年   エクィップ ルノー エルフ   ジャック・ラフィット ルノー・アルピーヌ・A442 S
+2.0
289 DNF DNF
1978年   エクィップ ルノー エルフ スポール   ジャン=ピエール・ジャブイーユ ルノー・アルピーヌ・A443 S
+2.0
279 DNF DNF
Source:[2]

脚注

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  1. ^ 唯一、存命のジョディ・シェクターが語る“6輪”ティレルP34 オートスポーツweb 2018年12月10日
  2. ^ Patrick Depailler, France”. racingsportscars.com. September 21, 2017閲覧。

関連項目

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外部リンク

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タイトル
先代
ジャン=ピエール・ジョッソー
フランスF3 チャンピオン
1971
次代
ミシェル・ルクレール
先代
ジャン=ピエール・ジャリエ
ヨーロッパF2 チャンピオン
1974
次代
ジャック・ラフィット