ケネス・アチソン

イギリスのレーシングドライバー (1957-)

ケネス・ヘンリー・アチソンkenneth henry Acheson1957年11月24日 - )は、イギリスの元レーシングドライバー。北アイルランドのクックスタウン出身。日本ではケニー・アチソンと表記されることもある。

ケネス・アチソン
基本情報
フルネーム ケネス・ヘンリー・アチソン
国籍 イギリスの旗 イギリス
出身地 北アイルランドクックスタウン
生年月日 (1957-11-24) 1957年11月24日(66歳)
F1での経歴
活動時期 1983, 1985
過去の所属チーム RAM
出走回数 10 (3スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1983年イギリスGP
最終戦 1985年イタリアGP
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経歴

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初期の経歴

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1976年から地元のフォーミュラ・フォードに参戦し、1977年に北アイルランドFF1600のタイトルを獲得する。

1979年からフォーミュラ3にステップアップ、1980年イギリスF3選手権で5勝を挙げランキング2位となる(同ランキング9位はナイジェル・マンセル、10位はエディ・ジョーダン)。

1981年ヨーロッパF2選手権にステップアップ。トールマンチームに加入し、ローラ・T850ハートに搭乗。最終戦マントープ・パークステファン・ヨハンソンジェフ・リースに次ぐ3位に入り、F2での初ポディウムに立つ。1982年に日本のホンダRA262Eエンジンを搭載する前年のチャンピオンチームラルトに移籍、F3タイトルを獲得してのF2ステップアップを果たしたジョナサン・パーマーがチームメイトとなった。それまでラルトはホンダF2エンジンの独占供給を受けていたが、この年からホンダが出資するスピリット・レーシングも供給先となり競争が激化した。アチソンはラルト・RH6-82で2位表彰台も記録し、シリーズ7位となったが勝利は挙げられず、翌年のラルト・ホンダのシートはマイク・サックウェルに奪われる結果となった。

1983年マウラーBMWに移籍しヨーロッパF2での3年目となった。第6戦のポー・グランプリ公道コースで2位入賞。すると、F1に参戦する小チームRAMのマネージャー、ジョン・マクドナルドがアチソンに接触。RAMはあまりに戦闘力が無かったためエリセオ・サラザールに逃げられてしまっていた。J.マクドナルドは後任を探しており、指名を受けたアチソンはF1デビューを望んだ。以後F2参戦を休止し、F1に参戦することになった。後半4戦を走らなかったヨーロッパF2ランキングは10位となった。

1983年、F1に途中参戦したアチソンだったが、契約したRAMレーシングはF1で最も小さい規模のチーム[1][2]であり、使用するマシンRAM・マーチ01は戦闘力が皆無だった。エントリーを開始した第9戦イギリスGPから6連続予選落ちを喫してしまう。南アフリカのキャラミで行われた、最終戦南アフリカグランプリでようやく予選突破し、優勝したブラバムリカルド・パトレーゼから6周遅れの12位で完走した。このレースがアチソンのF1キャリア唯一の完走となった。

1984年はアメリカインディアナポリス500ローラ・T800でエントリーするも実際に走行は出来ず、マーチ・83CCARTシリーズにスポット参戦。

1985年、レギュラードライバーのマンフレッド・ヴィンケルホックWECの事故で失ったRAMから、彼の後任として3レースにエントリーし、うち2レースで予選通過を果たしたものの、いずれもリタイアに終わり、アチソンは以降F1に参戦することはなかった。

日本での参戦

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1985年からレース活動の拠点を日本に移し、全日本F3000選手権全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)にフルエントリー。F3000では第6戦富士スピードウェイで優勝を果たし、年間でも中嶋悟松本恵二に次いでランキング3位に入る。ランキング4位は星野一義であり、当時の日本のBIG3に食い込む活躍であった。JSPCではノバ・エンジニアリングポルシェ・962C高橋国光とのコンビを組んだ。ノバの森脇基恭は「ケニーは速さも持っていたけど、すごくいいヤツで、それがレース界でのシート争いなどでは災いした面がある。人間的にイイ人」とアチソンの人柄を自身の連載コラムで記している[3]

1989年の全日本F3000選手権では、ベネトンからのF1デビューが急遽決まったエマニュエル・ピロの代役を務め、WSPCのスケジュールが重ならない日程に限りチーム・ルマン伊太利屋レイナード・89D無限・MF308に乗り参戦した。

スポーツカーレース

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1988年からはル・マン24時間レースにも参戦。総合2位を獲得した。またこの年からは全年に参戦を開始した2カテゴリーに加え、全日本ツーリングカー選手権のクラス2にもBMW・M3で参戦し、柳田春人/ウィル・ホイ組に及ばなかったが、クラス2位となり、総合でもシリーズランキング5位に入る成績だった。

その後ヨーロッパに戻り、スポーツカー世界選手権(WSPC)で活躍、1989年にはザウバー・メルセデスの一員となり、マウロ・バルディとのコンビでザウバー・C9を駆り2勝を挙げた。以後も日産ジャガー、トヨタのワークスドライバーとして活躍。ル・マン24時間にも引き続き参戦し、トムスから参戦した1992年は関谷正徳ピエール=アンリ・ラファネルと共に再び総合2位を獲得した。

1996年のル・マン24時間レース出場を最後に現役を引退。

レース戦績

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イギリス・フォーミュラ3選手権

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チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
1979年 RMCグループ ラルト RT1 トヨタ・2T-G SIL
Ret
THR
Ret
SIL
6
SNE
Ret
DON
6
THR
8
BRH
5
DON
DNQ
SIL
6
BRH
8
CAD
Ret
SIL
Ret
SIL
3
SNE
3
MAR SIL
10
OUL
3
6位 35
マーチ 793 THR
2
SIL
3
THR
2
1980年 マーチ 803 SIL
2
THR
Ret
BRH
2
THR
1
SIL
1
THR
5
SNE
1
SIL
2
CAD
Ret
SIL
1
BRH
3
SIL
5
BRH
1
OUL
Ret
SIL
2
SIL
9*
MAR
Ret
SIL
3
OUL
2
THR
9
2位 95

(key)

  • * : ヨーロッパF3との合同レース

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権

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チーム シャーシ エンジン タイヤ 車番 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 Pos. Pts
1981年 トールマン ローラ・T850英語版 ハート P 2 SIL
19
HOC
Ret
THR
Ret
NÜR
6
VLL
10
MUG
15
PAU
Ret
PER
SPA
DON
MIS
MAN
3
15位 5
1982年 ラルト ラルト・RH6/82英語版 ホンダ・RA262E B 1 SIL
Ret
HOC
13
THR
2
NÜR
4
MUG
6
VLL
14
PAU
6
SPA
14
HOC
5
DON
10
MAN
Ret
PER
Ret
MIS
Ret
7位 12
1983年 マウラー マウラー・MM83 BMW M12/7 B 17 SIL
Ret
THR
10
HOC
10
NÜR
9
VLL
11
PAU
2
JAR
Ret
DON
8
MIS
PER
ZOL
MUG
10位 6
所属チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1983年 RAM マーチ01 BRA USW FRA SMR MON BEL DET CAN GBR
DNQ
GER
DNQ
AUT
DNQ
NED
DNQ
ITA
DNQ
EUR
DNQ
RSA
12
NC 0
1985年 03 BRA POR SMR MON CAN DET FRA GBR GER AUT
Ret
NED
DNQ
ITA
Ret
BEL EUR RSA AUS NC 0
チーム シーャシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1984年 W.I.Tプロダクションズ ローラ・T800 コスワース DFX LBH PHX INDY
DNS
MIL POR POC MDO SAN MCH PHX LS
DNS
CPL NC 0
マーチ・83C MEA
Ret
CLE MCH ROA
DNQ

全日本F2選手権/全日本F3000選手権

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チーム シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1981年 Suzuki Racing トールマン・TG280 ハート SUZ SUZ SUZ SUZ SUZ
Ret
NC 0
1982年 Ralt Racing Ltd. ラルト・RH6/82 ホンダ SUZ FSW SUZ SUZ SUZ
15
SUZ
4
12位 10
1985年 ADVAN SPORTS NOVA マーチ・85J SUZ
4
FSW
3
MIN
6
SUZ
Ret
SUZ
5
FSW
1
SUZ
4
SUZ
8
3位 66 (69)
1987年 ADVAN SPORT TOMEI マーチ・87B コスワースDFV SUZ
8
FSW
16
NIS SUZ
10
SUZ
15
SUG
Ret
FSW
7
SUZ
Ret
SUZ
Ret
15位 8
1988年 OMMG TEAM KITAMURA 無限 MF308 SUZ
8
FSW
Ret
NIS
9
SUZ
15
SUG
Ret
FSW
14
SUZ SUZ NC 0
1989年 伊太利屋 NIKKEI Team Le Mans レイナード・89D SUZ FSW NIS SUZ SUG
Ret
FSW
14
SUZ SUZ NC 0
1991年 株式会社アド・レーシング レイナード・91D SUZ
DSQ
AUT FSW NIS SUZ SUG FSW SUZ FSW SUZ FSW NC 0

国際F3000選手権

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チーム シャーシ エンジン タイヤ 車番 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1986年 エディ・ジョーダン・レーシング マーチ・86B コスワース DFV A 21 SIL VLL PAU SPA IMO MUG PER ÖST
Ret
BIR BUG JAR NC 0

世界耐久選手権/世界スポーツプロトタイプカー選手権/スポーツカー世界選手権

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チーム 車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1985年 ジョン・フィッツパトリック・レーシング ポルシェ・956B C1 MUG MNZ
Ret
SIL NC 0
ポルシェ・962C LMS
DNQ
HOC MOS SPA BRH
リチャード・ロイド・レーシング ポルシェ・956 Gti FSW
Ret
SHA
1986年 チーム・イクザワ トムス・86C C1 MNZ SIL LMS NOR BRH JER NÜR SPA FSW
Ret
NC 0
1987年 アドバン・アルファスポーツ・ノバ ポルシェ・962C C1 JAR JER MNZ SIL LMS NOR BRH NÜR SPA FSW
11
NC 0
1988年 チームザウバー・メルセデス ザウバー・C9 C1 JER JAR MNZ SIL LMS
DNS
BRN BRH NÜR SPA FSW
5
SAN NC 0
1989年 C1 SUZ
2
DIJ
3
JAR
5
BRH
1
NÜR
2
DON
2
SPA
1
MEX
Ret
4位 97 (105)
1990年 ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル 日産・R89C C SUZ
Ret
9位 11
日産・R90CK MNZ
7
SIL
Ret
SPA
3
DIJ
21
NÜR
9
DON
4
CGV
5
MEX
4
1991年 シルクカット・ジャガー ジャガー・XJR-12 C2 SUZ MNZ SIL LMS
3
NÜR MAG MEX AUT 24位 12
1992年 トヨタ・チームトムス トヨタ・TS010 C1 MNZ SIL LMS
2
DON SUZ
Ret
MAG 16位 15

ル・マン24時間レース

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チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1989年   チーム・ザウバー・メルセデス   マウロ・バルディ
  ジャンフランコ・ブランカテリ
ザウバー・C9-メルセデス C1 384 2位 2位
1990年   ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル   マーティン・ドネリー
  オリビエ・グルイヤール
日産・R90CK C1 0 DNS DNS
1991年   シルクカット・ジャガー
  トム・ウォーキンショー・レーシング
  ボブ・ウォレク
  テオ・ファビ
ジャガー・XJR-12 C2 356 3位 3位
1992年   トヨタ・チーム・トムス   関谷正徳
  ピエール=アンリ・ラファネル
トヨタ・TS010 C1 346 2位 2位
1993年   ピエール=アンリ・ラファネル
  アンディ・ウォレス
C1 212 DNF DNF
1995年   サード株式会社   アラン・フェルテ
  吉川とみ子
サード・MC8R LMGT1 14 DNF DNF

全日本ツーリングカー選手権

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チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 順位 ポイント
1987年 ローバー・ビテス DIV.3 NIS SEN
3
TSU SUG FSW
Ret
SUZ
9
1988年 BMW・M3 JTC-2 SUZ NIS
2
SEN
2
TSU
4
SUG
1
FSW
1
3位 116

関連項目

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  • ADVAN - ADVANカラーのマーチで全日本F3000に参戦。
  • SHOEI - SHOEI製ヘルメットを欧州開催のF1で初使用したのは1983年のアチソンだった。

脚注

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  1. ^ RAMレーシングのスタッフは総勢25名で、最小のF1チームであった
  2. ^ Ian Bamsey: The 1000 bhp Grand Prix Cars, 1988 (G.T. Foulis & Co. Ltd), ISBN 978-0854296170, S. 99.
  3. ^ ガレージ・トーク / 森脇基恭『「いいヤツ」が災いしたケニーと、風変わりな男・モレノ』 レーシング・オン(No.010)114頁、武集書房 1987年2月