鷹峯

京都市北区の地域名

鷹峯[† 1](たかがみね)は、京都市北区鷹峯街道京都府道31号西陣杉坂線)を中心に広がる地域名である。また、その西南方に連なる丘陵の名称でもある。本項では同地域にかつて存在した愛宕郡鷹峯村(おたぎぐん たかがみねむら)についても述べる。

鷹峯
たかがみね
日章旗 日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
自治体 京都市
行政区 北区
旧自治体 愛宕郡鷹峯村
世帯数
1,908世帯
総人口
4,191
北緯35度3分15.2秒 東経135度43分50.9秒 / 北緯35.054222度 東経135.730806度 / 35.054222; 135.730806座標: 北緯35度3分15.2秒 東経135度43分50.9秒 / 北緯35.054222度 東経135.730806度 / 35.054222; 135.730806
鷹峯の位置(京都府内)
鷹峯
鷹峯
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鷹峯街道と町並み

概要

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鷹峯三山の一、鷹峯

京都市北区南西部に位置し、右京区と接している。京の七口の一つである長坂口(ながさかぐち)から丹波国若狭国へ続く、かつての鯖街道の入口にあたる[1][2]1780年安永9年)に刊行された『都名所図会』(みやこめいしょずえ)では、街道を往来する人物が複数描かれ、その半数が荷物を担いでいる様子が窺え、鷹峯地域が物資輸送上、重要であったことを示唆している[3]

南東から北西にかけて細長く広がり、東に隣接する大宮学区とほぼ並行している。地域の東側は鷹峯街道沿いの台地に、西側は天神川(紙屋川)沿いに谷間の狭隘地になっている[4]。それらの北西後方には杉阪集落に至るまで、小高い丘陵が広がる。

後述の通り、江戸時代より御典医藤林氏が、当地に広大な薬草園を開いて野菜を栽培したことから、京の伝統野菜の名産地としても知られる。辛味大根聖護院大根朝鮮人参唐辛子鷹峯とうがらし)、鷹峯ねぎ、鹿ケ谷南瓜(ししがたにかぼちゃ)など、主な京野菜が今日でも栽培されている。

鷹峯学区には、2010年平成22年)4月現在で1929世帯、4319人が居住している[5]。以前盛んであった紋彫りなどの西陣織関係や農林業従事者が減少する一方、宅地開発が進み、会社員世帯が増加している[6]。学区内の教育機関としては、京都市立鷹峯小学校ほか、幼稚園1園、保育所2箇所が設置されている。少子化が進む中で、鷹峯小学校の児童数は2009年平成21年)に202人と、2001年(平成13年)の児童数266人に比べ、8年間で約4分の3に減少している[7]

鷹峯三山

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大文字山(左大文字)の北方に位置し、当地西方に連なる丘陵をいう。東から鷹峯(鷹ケ峰、たかがみね)、鷲峯(鷲ケ峰、わしがみね)、天峯(天ケ峰、てんがみね)と称する。古文書に複数記載されるなど、かねてより多くの人に親しまれてきた。花札8月の絵札でおなじみの「」は、この鷹峯の山を模したものとされる[8]

ちなみに、鷹峯三山自体は隣の衣笠地域内にあり、現在の所在地名「大北山鷲峯町」に名を残している。

*「洛北の乾(いぬい)隅に在り。この処に三峯あり。いわゆる天峯、鷲峯、鷹峯これなり。中古、秋冬に至りてこの峰上に鷹綱を以って鷂(はいたか、小型のメスの鷹)を執る。是を鷹を打つという。これを綱懸鷹(つながけのたか)と称し、世に鷹峰鷹という」[9]
  • 「古(いにしえ)この山の林に鷹来て毎歳雛を生ず。この故にこの号ありと」[10]
  • 「鷹峯 千束の西北にあり、この所西南にならんで三峯あり。第一天峯、第二鷲峯、第三鷹峯より。由来未だ考えず、鷹峯今地の名とす」[10]

歴史

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遊猟の地

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古来、現在の鷹峯およびその周辺地域一帯は「栗栖野」(くるすの)と呼ばれていた。この栗栖野の一角に、高岑寺(たかがみねじ、たかみねじ)という名称の寺院が存在したとされる[11]が、その具体的な所在地は分かっていない。

平安時代には、代々の天皇が都に程近いこの栗栖野に行幸し、遊猟、鷹狩に興じていたという[12][13]。鷹狩の鷹を捕捉できる場所として知られたこの地の名称「高岑」が、いつしか「鷹峯」に変化したものと考えられている[14]

なお、当地には「かつて丹波国愛宕神社(元愛宕)の分霊が祀られ、781年天応元年)に和気清麻呂の請願で、慶俊(きょうしゅん、けいしゅん)が嵯峨山(現在の愛宕山)山上に移して愛宕神社を中興した」との説も残る[15][16]

集落の誕生

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光悦寺から鷹峯を望む

1591年天正19年)豊臣秀吉が外敵の侵入に備えて御土居を構築[17]。洛外とされた当地の治安は、辻斬り追いはぎが出没するなど、相当に悪化していたとされる[18]

1615年元和元年)に、辺土への居住を希望していた本阿弥光悦が、徳川家康より御土居以北の約8、9万坪の原野を拝領して、一族縁者を引き連れて移り住んだ[19]。こうして、鷹峯の地に集落(いわゆる光悦村)が形成され、光悦屋敷を中心として街路に面した家々が立ち並んだ。光悦を慕う芸術家や豪商も移り住んで、京都の芸術・文化の一大拠点となった[20]

一方、御土居付近以南は、1640年(寛永17年)に、御典医藤林道寿の一族が広さ約1.2haの薬草園「鷹ケ峰薬園」を開いて管理経営し、辛味大根朝鮮人参唐辛子をはじめとする野菜を栽培して幕府に納めたという[21][22]

その後、本阿弥家が土地を幕府に返上してこの地を離れたことにより、18世紀初頭に貝原益軒が著した『京城勝覧』では、一時的に賑わいが衰えた様子が伝わる。一方、上述の『都名所図会』には、光悦寺、妙秀寺、常照寺といった法華宗寺院の存在により、宗教色の濃い集落が形成されていた様子が描かれている[3][23]

近代

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たかがみねむら
鷹峯村
廃止日 1931年4月1日
廃止理由 編入合併
京都市、上賀茂村大宮村鷹峯村京都市上京区
現在の自治体 京都市
廃止時点のデータ
  日本
地方 近畿地方
都道府県 京都府
愛宕郡
市町村コード なし(導入前に廃止)
総人口 862
国勢調査1920年
隣接自治体 京都市(上京区)、
愛宕郡大宮村、葛野郡花園村梅ヶ畑村中川村小野郷村
鷹峯村役場
所在地 京都府愛宕郡鷹峯村
座標 北緯35度2分45.1秒 東経135度44分14.0秒 / 北緯35.045861度 東経135.737222度 / 35.045861; 135.737222 (鷹峯村)
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1869年明治2年)に光悦村、千束村および背面の山域(一ノ坂・石拾い・堂の庭)が合併して西紫竹大門村となり、1884年(明治17年)には上ノ町、木ノ畑村、蓮台野村を編入し鷹ケ峯村(鷹峰村)となった。1892年(明治25年)1月29日に、蓮台野ほか同村の一部地区が野口村(後の鷹野町、今の楽只学区域)として分立した[24]

20世紀に入り、右京区福王子から高雄を経て北区中川、小野郷へ抜ける周山街道が開通したことを嫌気して、当地の商家が続々と京都市中心部へ移転。鷹峯街道往来の活気は、にわかに失われたとされる[25]

1931年昭和6年)に京都市上京区に編入され、1955年(昭和30年)に分区・新設の北区に含められた。

鷹峯街道沿いの鷹峯小学校の標高は約160m。これは八瀬ケーブル八瀬駅と同じで、昭和40年代の宅地開発のピーク時には「京の軽井沢」「百万ドルの夜景」とも宣伝されていた[6]

教育

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京都市立鷹峯小学校
1873年(明治6年)に「愛宕郡西紫竹大門校」として創立。時期は不明ながら、1885年(明治18年)までに「愛宕郡第三番学区鷹峯校」と校名が改称された[26]。現在の在籍生徒数は約200名。かつて校内敷地が狭かったため、運動場プールが校舎敷地から離れた場所に設置され、その都度移動しなければならなかった。そのため、2007年(平成19年)10月より敷地拡張と運動施設造成工事が順次進められ[27][28]2011年(平成23年)6月に約6150㎡の新運動場[† 2]、約370㎡の野外学習施設棟、プールおよびテニスコートが校舎敷地に隣接して整備された[29][30]

名所・旧跡

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源光庵山門
 
光悦寺・光悦垣
鷹峰山源光庵(ようほうざんげんこうあん)
曹洞宗1346年貞和2年)に徹翁義亨が隠居所として創建した。当初は臨済宗に属していたが、1694年元禄7年)に加賀国大聖寺の卍山導山(まんざんどうはく)が再興し改宗した。本堂天井は伏見城の遺構で、関ヶ原の戦いで東軍についた鳥居元忠とその家臣が自刃した床を用いた血天井である。その他、北山を借景とする枯山水庭園、仏教の真理を示す円形の「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」が有名。境内の「稚児井戸」(ちごいど)からは今も清水が湧く。
寂光山常照寺(じゃっこうざんじょうしょうじ)
日蓮宗1616年元和2年)に光悦が土地を寄進し、その子光瑳の発願により、日蓮宗の日乾(にちけん)を開山として創建された。日乾に帰依した吉野太夫ゆかりの寺として知られるほか、1969年昭和44年)全国初の「帯塚」が建立された。
鶏足山讃州寺(けいそくざんさんしゅうじ)
臨済宗。鷹峯千束町にたたずむ。もと室町幕府管領細川讃岐守成之の創建とされ、現在の上京区讃州寺町(西洞院一条下ル)にあった。1652年慶安5年)、京都所司代板倉重宗の命で、大徳寺玉林院第二世祥岳禅師により、当地へ移された[† 3]。現在は玉林院末寺であるが、住職は常駐していない。本堂脇の杉の巨木は圧巻で、樹齢350年は下らないとされる[31]
大虚山光悦寺(たいきょざんこうえつじ)
日蓮宗。光悦の死後、1656年明暦2年)に日蓮宗の日磁(にちじ)を開山として寺となった。光悦の墓、大虚庵を始めとする七つの茶室、大虚庵前に組まれたゆるやかな曲線の竹垣「光悦垣」などが知られる。

名物

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鷹峯とうがらし
1943年(昭和18年)頃から当地で栽培が始められた。伏見とうがらしより太く、万願寺とうがらしともやや形が異なる。辛みがなく、肉厚である。ハウスで定植され、夏から秋にかけて収穫、出荷される。栽培の歴史が比較的浅いため、京の伝統野菜ではなくそれに準じるものとされる[32]
御土居餅
御土居に見立てて考案された、当地内の和菓子店にて販売される羽二重餅である。

地域活動

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鷹峯ふれあいまつり
体育振興会、女性会、少年補導委員会を始めとする地域住民による模擬店の出店や、児童による演奏が催される学区のイベント。8月第1土曜日に、鷹峯小学校運動場で開催される。
鷹峯の歴史を語る会
鷹峯地域の歴史を探求するとともに、地域内に道標や観光マップ掲示板を設置したり、新しい世代に鷹峯の歴史を語り伝えたりするなど、当地への愛着を深める活動を行っている。
紙屋川を美しくする会
紙屋川の自然の清流を取り戻すため、流域の人々と連携しながら、紙屋川流域の清掃活動や美化啓発の標識の設置などの活動を行っている[33]
ふれあい事業
学区内の社会福祉協議会を主体に、独居高齢者などを対象として、歩こう会や地元特産の辛味大根を使った餅つき、鷹峯児童公園の清掃、鷹峯小学校の草引き、小学生と高齢者で花を植える事業などを、年4回実施している。
毎年秋季に紙屋川や京見峠を中心とする清掃活動[6]を行うとともに、北山地域不法投棄防止協議会活動に参加し、不法投棄されたゴミの回収にも取り組んでいる[27]

鷹峯ギャラリー

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脚注

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注釈

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  1. ^ 現在、公的な表記には「鷹峯」のみ用いられるが、かつては「鷹峰」「鷹ケ峰」「鷹ケ峯」などが混在していた。
  2. ^ 京都の市立小学校では初めて、100mの走路を直線で設定可能なグラウンドを備える。
  3. ^ 享保年間に京都町奉行が作成した『京都御役所向大概覚書』に「大徳寺末寺 愛宕郡鷹峯 御朱印寺領五石 千足山讃州寺」とある(京都地名2010 p.20)。

出典

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  1. ^ 京都地名2005 p.183 :『稚狭考』(板屋一助、1767年)「(小浜から京への道は、)丹羽八原通(現在の南丹市美山町知見)に周山をへて鷹峰に出る道あり。」
  2. ^ 京都地名2007 p.95 :『山城名跡巡行志』(浄慧、1754年)「長坂越一名山国路、長坂口至杉坂二里十三町。自杉坂至西河内。西河内ヨリ峠桑田郡界十九町。出丹波山国下村」
  3. ^ a b 佛教大学 渡邊秀一研究室[リンク切れ]
  4. ^ 京都地名2005 p.122 京都地名2010 p.15
  5. ^ 平成22年度 北区運営方針 (PDF)
  6. ^ a b c 京都市情報館 北区役所 リレー学区紹介-鷹峯学区
  7. ^ 北区の現状と課題 平成21年9月 京都市北区役所 (PDF) [リンク切れ]
  8. ^ 京都市北区 歩くマップ エリアCのスポット 鷹峯の山”. 2007年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
  9. ^ 京都地名2010 p.83 :『雍州府志』(ようしゅうふし、1664年)
  10. ^ a b 京都地名2010 p.83 :1711年正徳元年)刊行『山州名跡志』(白慧(坂内直頼) 撰)
  11. ^ 京都地名2010 p.83 :『日本三代実録874年貞観16年)8月24日条、1714年正徳4年)刊行『新撰増補京大絵図』に記載
  12. ^ 京都地名2010 p.83 :『類聚国史833年天長10年)9月25日条「(仁明)天皇栗栖野に行幸し遊猟す。綿子池(わたごいけ、大宮釈迦谷地内 現在の尺八池付近)に行幸す。調養する所の隼(はやぶさ)を放ち水禽(すいきん、水鳥)を払う」ほか、栗栖野の地で遊猟したとの記述が複数存在する。
  13. ^ フィールド・ミュージアム京都 KI005 平安遊禽綿子池旧跡
  14. ^ 京都地名2010 p.84
  15. ^ 京都地名2010 p.337
  16. ^ 第1回小野陽太郎さん「風の音を聴く」”. Slownet. 2012年3月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
  17. ^ 京都地名2007 pp.64-65
  18. ^ 『本阿弥行状記』(五十二段)「近江丹波などより京都への道に、用心あしき、辻切追はぎをもする所あるべし」
  19. ^ 京都域粋66号 『鷹ヶ峯 光悦村』” (pdf). 2016年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
  20. ^ 京都地名2010 p.85
  21. ^ 『「鷹ケ峰薬園」(江戸期)ここに』 京都新聞2011年7月7日
  22. ^ フィールド・ミュージアム京都 KI069 鷹ヶ峰薬園跡
  23. ^ 鷹峯児童公園前に掲示された説明書き『京七口の一つ長坂口(この辺りの様子)』「本阿弥家が幕府に返上してから間口の広い屋敷には京や丹波からの商家が移り住む様になり材木問屋、薪炭問屋、米屋、たばこ問屋等々が営まれいた(原文ママ)。船の着かない港と云われていた一時期もあった。」
  24. ^ 市区町村変遷情報 詳細データ
  25. ^ 鷹峯児童公園前に掲示された説明書き『京七口の一つ長坂口(この辺りの様子)』
  26. ^ 京都市立鷹峯小学校PTA事務局”. 2012年5月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月26日閲覧。
  27. ^ a b 京都市情報館 北区役所 わたしたちのまち北区-鷹峯学区だより
  28. ^ 京都市教育委員会事務局総務部 「鷹峯小学校 念願の拡張敷地造成工事 いよいよ着工!」 (PDF)
  29. ^ 『移転工事終わり竣工式、北区の鷹峯小』 京都新聞2011年6月5日
  30. ^ 『鷹峯小のグラウンドやプール完成 校舎に近接』 産経新聞2011年6月5日
  31. ^ 京都地名2010 p.15
  32. ^ 京都府 鷹峯とうがらし
  33. ^ 京都市情報館 いきいき北区プラン・フォローアップ事業 活動状況[リンク切れ]
  34. ^ 『京都・北区に“最強”の「激坂」 サイクリストも畏怖 つくったのは江戸時代の文化人?』 京都新聞2023年5月4日

参考文献

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  • 京都地名研究会 編『京都の地名検証』勉誠出版、2005年。ISBN 4-585-05138-4 
  • 京都地名研究会 編『京都の地名検証2』勉誠出版、2007年。ISBN 978-4-585-05139-8 
  • 京都地名研究会 編『京都の地名検証3』勉誠出版、2010年。ISBN 978-4-585-22000-8 

関連項目

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外部リンク

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