静岡県西遠女子学園中学校・高等学校
静岡県西遠女子学園中学校・高等学校(しずおかけんせいえんじょしがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、静岡県浜松市中央区にある私立の中高一貫校。運営は学校法人静岡県西遠女子学園。
静岡県西遠女子学園中学校・ 高等学校 | |
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北緯34度42分51秒 東経137度45分08秒 / 北緯34.71417度 東経137.75222度座標: 北緯34度42分51秒 東経137度45分08秒 / 北緯34.71417度 東経137.75222度 | |
過去の名称 |
女子高等技芸学校 浜松実科高等女学校 浜松淑徳女学校 西遠高等女学校 |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人静岡県西遠女子学園 |
校訓 |
高校:典雅 荘重 中学:強く 正しく 美しく |
設立年月日 | 1906年10月 |
創立者 | 岡本巌 |
共学・別学 | 男女別学・女子校 |
中高一貫教育 | 併設型 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード |
D122310000357 高等学校) C122310000126 (中学校) | (
高校コード | 22536D |
所在地 | 〒430-0807 |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
設置学科
編集- 全日制課程 普通科
沿革
編集創立
編集創立者は岡本巌・岡本欽夫妻[1]。建学の精神として「婦人の中に未来の人は眠れり」を掲げる[2][1]。
浜松市史によれば「前身」として、1892年(明治25年)3月、岡本欽(1877年 - 1929年)[3][1][注釈 1]が裁縫と手芸を教えるために開設した「浜松女塾」を挙げている[4]。
1896年(明治29年)、岡本欽は巌(旧名:三間岩次郎、1867年 - 1942年)と結婚[3]。小学校の教員であった[3]巌には女子教育を進める意思があり、欽は1903年(明治36年)に東京の和洋裁縫女学校(現在の和洋女子大学)[注釈 2]へ入学し[3]、本格的な技芸教育のための技術と資格を得ることとなった[1]。翌1904年(明治37年)、欽は和洋裁縫女学校の高等和服科および造花科を卒業[3]。巌も1906年(明治39年)に中等教員検定に合格し中等教員免許を得ている[3]。
1906年(明治39年)、加藤千之助を設立者とし[4]、岡本欽を校長として「私立女子高等技芸学校」を設立[4]。設立時の教員は8名、生徒25名[4]。本科3年・速成科1年など(ほかに高等科・専攻科)を置き、授業の多くは裁縫の実習であった[1]。学校が浜松町大字
1911年(明治44年)、高等女学校令改正に伴い「私立浜松実科高等女学校」となり、普通教科を拡充した[4]。校長には巌が就任した[8]。
浜松淑徳女学校と西遠高等女学校
編集岡本夫妻の学校は大正期に「浜松淑徳女学校」(2年制、実業学校)と「西遠高等女学校」(4年制、高等女学校)の2校となり、両校は姉妹校という関係になる。
浜松実科高等女学校からの移行(改称・廃止・新設)については出典により相違があるが[注釈 4]、実科教育の需要に応える学校[8]として浜松淑徳女学校への組織変更がなされる一方で、1920年(大正9年)に高等女学校令に基づく学校として西遠女学校が創設された[7]。
1923年(大正12年)、西遠高等女学校は佐藤町[注釈 5]の5000坪の敷地に移転した[9]。西遠高等女学校は1923年(大正12年)の移転を機に制服を洋服とし[12][13]、1932年(昭和7年)にセーラー服を採用した[9][13]。なお、1925年(大正14年)には浜松淑徳女学校にも高等科が併置された[4]。
1929年、浜松淑徳女学校校長を務めていた岡本欽が死去[14]。巌に学校の後継者として招かれた岡本富郎(旧姓:
1941年(昭和16年)時点で、佐藤町の西遠高等女学校(4年制)は生徒993人を擁しており[10]、平田町の私立浜松淑徳女学校(2年制)には生徒280が在籍した[16]。市立浜松高等女学校が浜松の女子が多かったのに対して、西遠高等女学校は浜松周辺農村出身の女子が比較的多かったという[9]。
第二次世界大戦中、平田町にあった浜松淑徳女子商業学校(1944年に浜松淑徳女学校より改称[17])は建物疎開の命令を受け、姉妹校である西遠高等女学校の校舎を借りて移転した[18]。浜松市の学校は度重なる空襲(浜松空襲)により大きな被害を受け[18]、平田町の浜松淑徳女子商業学校の旧校舎も全焼しているが[18]、佐藤町の西遠高等女学校の校舎は屋根やガラスなどに少なからぬ被害を生じたものの、焼失は免れた[9]。1945年4月30日および5月19日の空襲で、勤労動員中の西遠・淑徳の生徒29名・教員1名が命を落としている[7][17]。30名を慰霊する像として、1959年(昭和34年)5月に「殉難学徒慰霊像(愛の灯)」が建立されている[7][17]。
第二次世界大戦後
編集戦後学制改革により、西遠高等女学校と浜松淑徳女子商業学校は統合された[19][注釈 6]。1947年に新制中学校が発足し[19]、1948年には新制高等学校も発足した[19]。
昭和20年代から30年代にかけては運動部が国体やインターハイなどで活躍を示した[19]。昭和40年代には大学進学者が急増し、生徒の半数以上が進学するようになった[19]。
1984年度(昭和59年度)限りで高校の募集を停止しているが[20]、その後高校での募集も再開している。
略年表
編集- 1906年(明治39年)10月 - 現在の浜松市平田町に私立女子高等技芸学校として開校(校長:岡本欽)[7][注釈 7]
- 1911年(明治44年)4月 - 私立浜松実科高等女学校に改称(校長:岡本巌)[7]
- 1919年(大正8年)11月 - 浜松淑徳女学校に改称[7]
- 1920年(大正9年)2月 - 西遠高等女学校が新たに設置・開校(校長:岡本巌)[7][注釈 8]。学校所在地は浜松市平田町[9]。
- 1923年(大正12年)10月 - 西遠高等女学校、浜松市佐藤町に移転[7]
- 1941年(昭和16年)3月 - 財団法人静岡県西遠女子学園を設立、この法人を学校設置者とする[7]
- 1947年(昭和22年)4月 - 浜松淑徳女子商業学校と西遠高等女学校を合併[7][19]。新制中学校を開校[7]
- 1948年(昭和23年)4月 - 新制高等学校を開校。名称は静岡県西遠女子学園中学校および高等学校となる[7]
- 1950年(昭和25年)12月 - 学校法人静岡県西遠女子学園設立[7]
所在地
編集進学状況
編集4年制大学への進学が多い。
部活動
編集運動系の部活動は長い活動の歴史を有し、「スポーツの西遠」とも呼ばれる[21]。
陸上競技部は1955年・1959年に全国高等学校総合体育大会陸上競技大会で女子総合優勝を果たし、国内外の大会で活躍する選手も輩出している[22][23]。『浜松市史』によれば、生駒定文が指導に当たっていた昭和30年代には「陸上の西遠」として全国に知られ、浜松商業高等学校とともに「陸上王国浜松」の評を得る一翼を担ったという[22]。
また、バレーボール部は1951年(昭和26年)から1965年(昭和40年)までインターハイ連続出場の実績がある[21]。
アクセス
編集- 浜松駅バスターミナル10のりばより、「73労災 丸塚 笠井(夜のみ)」「74中田町 イオン市野」「75労災 宮竹 笠井」「76労災正門 宮竹 笠井(平日のみ)」「77東海染工 イオン市野」「78労災 産業展示館」のいずれかのバスに乗車し、「西遠学園」バス停下車
主な卒業生
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 『浜松市史』では「欣」[4]。
- ^ 中日新聞の特集記事[1]では「和洋女子専門学校」とするが、この名称になるのは1928年からである。1897年に和洋裁縫女学院として設立され、1901年に和洋裁縫女学校と改称された[5]。
- ^ 同様に裁縫学校から高等女学校に発展した学校として私立浜松裁縫女学校(浜松高等家政女学校・浜松信愛女学校などに改名し、現在の浜松学芸中学校・高等学校)があり、こちらは「常盤の女学校」と呼ばれた[6]。
- ^ 以下のように描写が異なる。
- 学園公式サイトによれば、私立女子高等技芸学校は1911年(明治44年)に「学制改正」により「私立浜松実科高等女学校」に「改称」。1919年(大正8年)11月「学校組織の変更」にともない「浜松淑徳女学校」に「改称」。1920年(大正9年)2月に「西遠高等女学校」を「新たに設置開校」[7]。
- 『浜松市史 三』「第三章 町制の施行と浜松町の発展」では、私立女子高等技芸学校は1911年(明治44年)に実科高等女学校となり、1919年(大正8年)に浜松淑徳女学校に「改称」された[4]。「西遠高等女学校」は1920年(大正9年)3月、「岡本夫婦の教育実績を基盤」として「創設」[9]。
- 『浜松市史 四』「第四章 市制の施行と進む近代化」では、1911年(明治44年)に浜松実科高等女学校が「廃止」されてその代わりとして浜松淑徳女学校(修業年限2年)が「新設」され、1920年(大正9年)に同一経営者によって「私立西遠高等女学校」が設立された、と記す[10]。
- 浜松市立県居公民館編『わが町文化誌 学びの里 祈りの丘』によれば、私立女子高等技芸学校は1911年(明治44年)に浜松実科高等女学校に「改名」、1920年(大正9年)に西遠高等女学校に「改名」し、現在の西遠女子学園高等学校の前身となる。1920年(大正9年)に浜松淑徳女学校が創立[11]。
- 中日新聞の特集記事によれば、1920年(大正9年)2月、高等女学校令に基づく西遠女学校が開校、同年4月には「浜松淑徳女学校」が開校した[8]。
- ^ 『浜松市史 三』によれば、大字佐藤一色[9]。中日新聞の特集記事によれば、佐藤町と蒲村にまたがり、蒲神明宮の一部であったという[12]。
- ^ 浜松淑徳女子商業学校は、制度上は1949年(昭和24年)3月まで存続し閉校[4]。
- ^ 公式サイトによれば10月に「開校」[7]。『浜松市史 三』によれば6月に「開設」[4]、学校所在地は浜松町大字平田[4]。
- ^ 公式サイトによれば2月に「新たに設置開校」[7]。『浜松市史 三』によれば3月に「創設」[9]。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>校史(1) 女子高等技芸学校開設と建学の精神」『中日新聞』2006年4月26日。2021年4月26日閲覧。
- ^ a b “建学の精神”. 西遠女子学園. 2021年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “学園の礎を築いた人々”. 西遠女子学園. 2021年4月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “信愛高等女学校と西遠高等女学校”. 浜松市史 三(ADEAC所収). 2021年4月26日閲覧。
- ^ “沿革”. 和洋女子大学. 2021年4月27日閲覧。
- ^ a b “浜松裁縫女学校 家政女学校 信愛女学校”. 浜松市史 三(ADEAC所収). 2021年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “西遠の歴史”. 西遠女子学園. 2021年4月27日閲覧。
- ^ a b c d 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>校史(2) 浜松実科高等女学校から西遠高等女学校、淑徳女学校へ」『中日新聞』2006年4月29日。2021年4月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “西遠高等女学校 西遠女子学園”. 浜松市史 三(ADEAC所収). 2021年4月26日閲覧。
- ^ a b c “西遠高等女学校 誠心高等女学校”. 浜松市史 四(ADEAC所収). 2021年4月26日閲覧。
- ^ a b “第三章 豊かな個性を育てる教育と文化”. 浜松市立県居公民館編『わが町文化誌 学びの里 祈りの丘』p.79(ADEAC所収). 2021年4月27日閲覧。
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- ^ a b 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>校史(8) 進化する学園と富郎校長の死」『中日新聞』2006年5月24日。2021年4月26日閲覧。
- ^ a b c 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>生徒の活躍(2) バレーボール部」『中日新聞』2006年7月15日。2021年4月26日閲覧。
- ^ a b c “第四項 高校教育の発展>全国に誇るクラブ活動”. 浜松市史 四(ADEAC所収). 2021年4月26日閲覧。
- ^ a b 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>生徒の活躍(4) 陸上競技部」『中日新聞』2006年7月21日。2021年4月26日閲覧。
- ^ “活躍する卒業生”. 西遠女子学園. 2021年4月27日閲覧。
- ^ 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>学園の伝統(1) 生活会館教育」『中日新聞』2006年4月26日。2021年4月26日閲覧。
- ^ 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>卒業生(9) 大朝 尚子さん」『中日新聞』2006年6月28日。2021年4月26日閲覧。
- ^ 「高校・大学周年特集 西遠女子学園100周年>卒業生(10) 美乃 ほのかさん」『中日新聞』2006年7月1日。2021年4月26日閲覧。