陳静斎

中国の実業家・銀行家・政治家・軍人

陳 静斎(ちん せいさい、1885年 - 1945年9月)は中華民国の実業家・銀行家・政治家・軍人。中華民国臨時政府や南京国民政府(汪兆銘政権華北政務委員会において河南省長を務めた。

陳静斎
河南省長時代
プロフィール
出生: 1885年光緒11年)[1]
死去: 1945年民国34年)9月
中華民国の旗 中華民国河南省
出身地: 清の旗 河南省彰徳府臨漳県柳園集(現在は河北省邯鄲市[1]
職業: 実業家・銀行家・政治家・軍人
各種表記
繁体字 陳靜齋
簡体字 陈静斋
拼音 Chén Jìngzhāi
ラテン字 Ch'en Ching-chai
和名表記: ちん せいさい
発音転記: チェン ジンジャイ
テンプレートを表示

事績

編集

実業家・銀行家としての活動

編集

貧しい家庭に生まれ、若い頃は銀細工師の徒弟となった。後に帰郷すると、故郷に隣接する河南省安陽県で薬物商店の「仁記花店」を開業し、経営的に成功を収めた[注 1]。その後、北京天津にまで支店を展開する「恒泰銀号」を開業し、その総経理となっている[2]

1922年民国11年)、直隷派張福来が河南督理に就任すると、陳静斎はこれと提携関係を構築した。陳は開封で軍用被服廠を開設し、その廠長となっている。更に張の資金援助を受け、陳は「絲茶銀行」(本店:天津)も開いて総裁となった[2]

1925年(民国14年)春に第二次奉直戦争で呉佩孚が敗退すると、陳静斎は苦境にあった呉に対し、軍需物資・軍資金の調達において強力な支援を行った。これにより呉と親交を結んだが、後に呉が最終的に失脚すると、絲茶銀行が倒産するなどして陳も大打撃を受けた[2][3]

国民政府時代になると陳静斎は再起のために活動し、当時の河南省政府主席・韓復榘と提携関係を結んだと見られる。1930年(民国19年)9月に韓が山東省政府主席に移ると陳も随従し、山東省銅元局局長に任命された[4]1933年(民国22年)、銅元局は20文銅貨を試鋳したものの、中央の貨幣制度に合致していなかったため、実際に流通させることはできなかった。

山東省銅元局が活動停止すると、陳静斎は陝西省西安市へ移って灯油会社を開いたが、これも不振に終わる。そのため安陽に戻り、「普潤面粉廠」を開いて董事長に就任した[5]。以上の経歴から、陳は安陽の大地主・大商人として知名度は高かったという[1]

親日政権での活動

編集

1937年(民国26年)11月初旬、日本軍が安陽など河南北部(豫北)一帯を占領し、同月27日には傀儡地方政権たる河南省自治政府(主席:蕭瑞臣)を樹立した。この際には安陽県が彰徳県と改称され、自治政府の省会(省都)となっている。

当初の陳静斎は彰徳を離れて南方へ逃走した。その後、様子をうかがいに彰徳へ戻ってきたところ、日本側に察知されて陳は事実上監視下に置かれた。それからの陳は呉佩孚や岡村寧次と連絡を取り合い、以後は日本側に協力する意思を固めている[6]

1938年(民国27年)4月10日、河南省自治政府は中華民国臨時政府に吸収合併され、河南省政府公署(省長署理:蕭瑞臣)となる。翌1939年(民国28年)3月14日、陳静斎は豫北道尹署理[注 2]に任命された[7]。同年6月10日、蕭瑞臣が河南省長署理を辞職し、陳が豫北道尹在任のまま省長代理となった[8][注 3]。省長代理の期間においては、臨時政府内政部から参事の呉甌が省政府公署民政庁庁長署理として派遣され、陳を補佐している。8月9日、陳は豫北道尹から昇任し[注 4]、河南省長署理に任命された[9]。臨時政府においては、陳は省長署理のままで終わったと見なされる[注 5]

1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。陳静斎は河南省省長に重任された[10][注 6]1942年(民国31年)2 月28日、華北政務委員会委員を兼任している[11][12]1943年(民国32年)3月3日、陳は河南省省長の兼職を解かれ(後任は田文炳[13][14][注 7]、華北政務委員会委員専任となった。同年11月11日、華北政務委員会改組により陳は委員からも罷免された[15][注 8]

1945年(民国34年)春、安陽一帯に駐屯していた「皇協軍」(日本軍に協力する中国側の義勇軍)である「東亜同盟軍」の軍長・王天祥八路軍に投降した。そのため、陳静斎は劉培緒(元・中央陸軍軍官学校副教育長)の補佐を受け、東亜同盟軍の残部を「華北靖安軍」(司令部:内黄県)に改組している。陳は同軍司令、劉は同軍参謀長を自称した[16][注 9]。しかし、この頃の陳はすでにステージ3の胃癌であったため活動が厳しい状態にあり、靖安軍は八路軍に大敗、劉も軍から退出していった[17]

終戦後の同年9月、陳静斎は病没した。それに伴い、靖安軍も間もなく瓦解した[5]。享年61。

注釈

編集
  1. ^ 具体的な薬品種は不明だが、甄(出版年不明)、87頁と路(1994)、97頁は共に「毒品」と記述しているため、麻薬や覚せい剤に類する違法薬物と見られる。
  2. ^ 「道尹」は省長の下位、県長の上位にあたる行政官。豫北道尹の管轄地域は、旧河南省自治政府のそれとほぼ同一であった。
  3. ^ 「世界政治外交日誌」『国際パンフレット通信』1202号、昭和14(1939)年6月号、141頁など、当時の日本側報道では、この河南省長人事の異例な点について言及が無い。
  4. ^ 後任の豫北道尹署理には李聘三が任命されている(臨時政府令、令字第455号、民国28年8月9日(『政府公報』第94号、民国28年8月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、3頁)。
  5. ^ 陳静斎より先に河北省長署理となった呉賛周は、臨時政府の廃止まで署理にとどまった。そのため、陳も同様であると見なせる。
  6. ^ ただし、重任の際に正式に省長に任命されたのか、それとも署理ないし代理だったのかは不明。
  7. ^ 新聞報道では3月1日付で異動があったとされている(「北支省長更迭 現役将軍を任命」『朝日新聞』(東京)昭和18年(1943年)3月3日、2面)。
  8. ^ この改組に伴う華北政務委員会委員や総署幹部の罷免については、公報上に記載されていない。
  9. ^ 陳静斎に軍歴はほぼ無いため、劉培緒が実際の指揮・運用を担当した可能性が高い。

出典

編集
  1. ^ a b c 甄(出版年不明)、87頁。
  2. ^ a b c 路(1994)、97頁。
  3. ^ 甄(出版年不明)、88頁。
  4. ^ 路(1994)、97-98頁。
  5. ^ a b 路(1994)、98頁。
  6. ^ 甄(出版年不明)、87-88頁。
  7. ^ 臨時政府令、令字第361号、民国28年3月14日(『政府公報』第65号、民国28年3月16日、臨時政府行政委員会情報処第四科、9頁)。
  8. ^ 臨時政府令、令字第421号、民国28年6月10日(『政府公報』第82号、民国28年6月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、2頁)。
  9. ^ 臨時政府令、令字第454号、民国28年8月9日(『政府公報』第94号、民国28年8月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、3頁)。
  10. ^ 『支那最近の状勢概觀』(東洋協会調査部調査資料第49輯)、1941年、東洋協会、12-13頁。
  11. ^ 国民政府令、民国31年2月28日(『華北政務委員会公報』第122-124期合刊、民国31年2月28日、国府1頁)。
  12. ^ 劉ほか編(1995)、1057頁。
  13. ^ 華北政務委員会令、会字第956号及び第957号、民国32年3月3日(『華北政務委員会公報』第195・196期合刊、民国32年3月19日、本会2頁)。
  14. ^ 劉ほか編(1995)、1130頁。
  15. ^ 「華北政務委員会改組」『外交時報』108巻5号通号936号、昭和18年12月1日、外交時報社、70頁。
  16. ^ 路(1994)、95-96頁。
  17. ^ 路(1994)、96頁。

参考文献

編集
  • 甄石「陳静斎是怎様当上偽豫北道尹的」中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会編『安陽文史資料 第2輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会、出版年不明。 
  • 路慶雲「短命的靖安軍」「附1: 陳静斎簡況」中国人民政治協商会議河南省安陽市文峰区委員会文史資料委員会編『文峰文史資料 第4輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市文峰区委員会文史資料委員会、1994年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  中華民国臨時政府
先代
蕭瑞臣
河南省長(署理)
1939年8月 - 1940年3月
(1939年6月-8月は代理)
次代
(廃止)
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
河南省長
1940年3月 - 1943年5月
次代
田文炳