蕭 瑞臣(しょう ずいしん、生年不詳 - 1949年)は中華民国の政治家。日本軍が河南省を占領した後に、河南省自治政府主席や中華民国臨時政府河南省政府公署省長署理を務めた。しかし、出自や前歴などについては不明点が多い人物である[注 4][注 5]

蕭瑞臣[注 1]
河南省長就任時(1938年)
プロフィール
出生: 不詳[注 2]
死去: 1949年
中国共産党解放区北平市
出身地: 不詳[注 3]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 蕭瑞臣
簡体字 萧瑞臣
拼音 Xiāo Ruìchén
ラテン字 Hsiao Jui-ch'en
和名表記: しょう ずいしん
発音転記: シャオ ルイチェン
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事績

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出自・前歴について

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蕭瑞臣の出自・前歴について史料は極めて乏しいが、本記事は甄石「偽彰徳県長蕭瑞臣軼事」と邢漢三[注 6]「第三任日偽河南省長田文炳」に依拠して記述する。

蕭瑞臣は、河南省安陽県の人から「南方人」と呼ばれていたが、出身地の詳細は不明である[1]。元々は呉佩孚の副官[2]岳維峻配下の営長[1]をつとめたとされ、邢漢三は蕭を「兵痞」(兵隊ゴロ)と侮蔑している。

当初、蕭瑞臣は湯陰県に駐留していたが、後に安陽へ移ってきたという。安陽滞在の頃、安陽の人々から「蕭営長」と呼び慣わされるようになった。しかし、蕭の生活は次第に困窮・退廃していき、日常的にアヘンを吸引してはアヘン仲間とつるむようになったという[1]。その一方で、北平や天津で商売を営んでいたともされる[2][注 7]

彰徳県長就任

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1935年(民国24年)12月に殷汝耕冀東防共自治政府を樹立するが、その以前から蕭瑞臣は殷と交友を持っており、冀東防共自治政府において参議に任命された。この頃に、自治政府の日本人顧問T・K[注 8]ともコネクションを持つようになっている[2]

1937年(民国26年)11月初めに日本軍が安陽を占領した際に、T・Kは安陽で傀儡政権樹立工作を開始している[2]。一方の蕭瑞臣は安陽県で新民会を組織し、その領袖となった。更に安陽県を改称した彰徳県の県長に就任している[3]

T・Kは、東北(東三省)出身の中国人側近である胡光と協力して、自治政府各機関(庁・処)の長となる人材を現地から登用していた。ある程度陣容が固まったところで、Kは胡を政府主席に起用しようと当初考えていたが、Kの見るところ胡は余りにも若く地元出身ではないため、主席に起用するには衆望に難があったという。そのためKは、冀東防共自治政府で知遇を得ていた蕭の起用を決めたとされる。なお邢漢三によれば、蕭の素性につき、河南省社会を含む外部に向けて一定の偽装がなされたという[2]

河南省の長としての活動

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1937年11月27日、彰徳を省会(省都)として日本軍の傀儡地方政権である河南省自治政府が成立すると、蕭瑞臣は同政府主席に抜擢された[4][5]。その際、蕭は「呉佩孚配下の元・師長」、「河南省の名望家」などと日本側から喧伝されたが[6]、それら経歴を裏付ける資料は見当たらない。蕭に省政の実権は無く、T・Kらの日本特務機関や胡光らの傀儡的存在でしかなかった[2]

1938年(民国27年)4月20日、河南省自治政府が中華民国臨時政府に吸収されて河南省政府公署に改められると、蕭は同省省長署理となった[7][8]。同年6月には中華民国新民会河南指導部長を[9]、同年10月15日には8人の委員で構成される河南黄河水災工振委員会委員長を[10][注 9]、それぞれ兼務している[11]

1939年(民国28年)6月10日、蕭瑞臣は最後まで正式な任命を受けられないまま、河南省長署理を辞職し[12][注 10]、豫北道尹の陳静斎が在任のまま省長代理となった[13][注 11]。蕭はこの後、臨時政府や華北政務委員会汪兆銘政権)で何らかの官職に就任することは無かったと見られる。

後に北平(北京)へ転居したとされるが、日中戦争の末期になると蕭瑞臣の動向は不詳となっていた。しかし1949年中国共産党が北平に入城した頃になると、蕭は精神失調により生活が非常に困窮している状況に陥っており、それからまもなく病没したとされる[14][注 12]

後世における人物評価

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邢漢三による蕭瑞臣の人物評価は上述のとおり極めて低く、「不学無術」(学問も技術も無い)で省長としての仕事もろくにできず、日本特務機関や胡光らも蕭には何ら仕事を任せようとしなかったという。ただの「木偶」「傀儡」でしかなかった、とも邢は酷評しているが、その一方で漢奸としての罪状は「糧食を無駄に消耗した」程度のこと(すなわち、そこまで重くない)とも述べている[2][注 13]

注釈

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  1. ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁には「蕭瑞臣」の項目が存在し、人物写真も掲載されているが、この写真の人物は正しくは陳静斎である。また、記述されている蕭の経歴についても根拠薄弱なため信を置くのが難しく、しかも陳の経歴との混同が見受けられる状況にあることから、本記事の他の注釈でも逐次追記する。
  2. ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁は「1885年光緒11年)6月」生まれと記載しているが、尾崎監修(1940)、170頁には記載が無い。なお陳静斎は1885年生まれである(甄(出版年不明)、87頁)。
  3. ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁は「河南彰徳」生まれとしている。しかし甄(1991)、169頁では、蕭瑞臣は「南方人」と記述していることから、誤りと思われる。尾崎監修(1940)、170頁も、蕭の出身地につき記載していない。一方、陳静斎は河南省彰徳府臨漳県(現在は河北省邯鄲市)出身である(甄(出版年不明)、87頁)。
  4. ^ 『満洲紳士録 第三版』(1940)、1624頁や赤松(1938)、286頁においては、蕭瑞臣の経歴について呉佩孚配下(前者によれば直魯豫巡閲使署少将参議、後者によれば師長)、河南省の名望家(後者)、河南被服廠廠長・山東銅元局長・河南豫北道尹(いずれも前者)などと記述しているが、甄(1991)や尾崎監修(1940)は採用していない。一方の陳静斎は、呉との間に交友関係が存在しており、河南省内の大地主・大商人であった(甄(出版年不明)、87-89頁。路(1994)、97-98頁)。また、『満洲紳士録 第三版』の「蕭瑞臣」に書かれた経歴については、路(1994)、97-98頁に書かれた陳の経歴に関する記述と一致点が極めて多い(河南被服廠廠長・山東銅元局長・河南豫北道尹は、いずれも陳の前歴である)。ただし、陳は呉に直属する武官または文官ではないため、直魯豫巡閲使署少将参議や師長を務めたことは無い。
  5. ^ wikipedia中国語版では、直隷派の湖北督軍・蕭耀南の「甥」という記述があるが、当時の日本側資料でもそのような記述は見当たらない。
  6. ^ 『新河南日報』社社長、河南省公署宣伝処長、河南省新民会事務部長などを歴任した人物。
  7. ^ 次代の河南省長である陳静斎と一致する経歴であり、邢漢三が混同していた可能性もあり得る。
  8. ^ この人物については資料により実在が確認され、姓名も明らかとなっているが、本記事ではイニシャルに留める。冀東防共自治政府顧問以外にも、彰徳特務機関政治主任や新民会河南省顧問を歴任した。
  9. ^ 河南黄河水災工振委員会は、僅か4か月で翌1939年2月17日に廃止された。臨時政府令、臨字第156号、民国28年2月17日(『政府公報』第60・61号合刊、民国28年2月26日、臨時政府行政委員会情報処公報室、1頁)。
  10. ^ 辞職時点でも「署理」であったことは、当該臨時政府令に明記されている。また、山東省長署理の馬良と異なり、蕭瑞臣は臨時政府委員(議政委員会委員)に特任されることも無かった。
  11. ^ 「世界政治外交日誌」『国際パンフレット通信』1202号、昭和14(1939)年6月号、141頁など、当時の日本側報道では、この河南省長人事の異例な点について言及が無い。
  12. ^ 邢(1990)、165頁によれば、1945年の日本敗戦時点で蕭はすでに死亡していた、としている。本記事は甄(1991)に従う。
  13. ^ 邢漢三は、次代の河南省長である陳静斎については「不学術」と評している。傀儡政権の行政官たる陳の倫理性や行状を糾弾している一方、その能力については一定の評価が可能だったことを示唆している。邢(1990)、157-158頁。

出典

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  1. ^ a b c 甄(1991)、169頁。
  2. ^ a b c d e f g 邢(1990)、157頁。
  3. ^ 甄(1991)、169-170頁。
  4. ^ 甄(1991)、173頁。
  5. ^ 「河南省自治政府成立」『同盟旬報』1巻16号、昭和12(1937)年11月下旬号、20頁。
  6. ^ 赤松(1938)、286頁。「蕭主席決意を語る」『東京朝日新聞』昭和12(1937)年11月28日夕刊、1面。
  7. ^ 臨時政府令、令字第176号、民国27年4月20日(『政府公報』第14号、民国27年4月25日、臨時政府行政委員会公報処、1頁)。
  8. ^ 赤松(1939)、188頁。
  9. ^ 岡田編(1986)、96頁。
  10. ^ 臨時政府令、令字第284号、民国27年10月15日(『政府公報』第40号、民国27年10月24日、臨時政府行政委員会公報処、1頁)。
  11. ^ 尾崎監修(1940)、170頁。
  12. ^ 臨時政府令、令字第420号、民国28年6月10日(『政府公報』第82号、民国28年6月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、2頁)。
  13. ^ 臨時政府令、令字第421号、民国28年6月10日(『政府公報』第82号、民国28年6月11日、臨時政府行政委員会情報処第四科、2頁)。
  14. ^ 甄(1991)、173頁。

参考文献

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  • 甄石「偽彰徳県長蕭瑞臣軼事」中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会編『安陽文史資料 第6輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会、1991年。 
  • 邢漢三「第三任日偽河南省長田文炳」中国人民政治協商会議河南省新郷市委員会文史資料委員会『新郷文史資料 第4輯』1990年。 
  • 甄石「陳静斎是怎様当上偽豫北道尹的」中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会編『安陽文史資料 第2輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市委員会文史資料委員会、出版年不明。 
  • 路慶雲「短命的靖安軍」「附1: 陳静斎簡況」中国人民政治協商会議河南省安陽市文峰区委員会文史資料委員会編『文峰文史資料 第4輯』中国人民政治協商会議河南省安陽市文峰区委員会文史資料委員会、1994年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  • 『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。 
  • 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 第12巻』創元社、1940年。 
  • 赤松祐之『昭和十二年の国際情勢』日本国際協会、1938年。 
  • 赤松祐之『昭和十三年の国際情勢』日本国際協会、1939年。 
  • 岡田春生編『新民会外史 黄土に挺身した人達の歴史 前編』五稜出版社、1986年。 


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