趙雲

中国後漢末期から三国時代の蜀漢の将軍。冀州常山郡真定県の人。蜀の中護軍・鎮軍将軍・永昌亭侯。

趙 雲(ちょう うん、拼音: Zhào Yún、?(生年不詳) - 建興7年(229年)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢にかけての将軍。子龍(しりゅう・しりょう)[1]冀州常山国真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号永昌亭侯順平侯

趙雲
蜀漢
鎮軍将軍・中護軍・永昌亭侯
出生 ?(生年不詳)
冀州常山国真定県
死去 建興7年(229年
拼音 Zhào Yún
子龍
諡号 順平侯
主君 公孫瓚劉備劉禅
兄弟 兄(名は不詳)
趙統趙広
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正史における趙雲

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以下は正史『三国志』(蜀書)趙雲伝(裴松之注『趙雲別伝』を含む)より。『三国志演義』の趙雲については『三国志演義における趙雲』を参照。

若き頃

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常山国真定県の出身。身長八尺(約185cm)あり、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて幽州公孫瓚の配下となった[2]

当時、袁紹は冀州牧を称していた為、公孫瓚は冀州の人々が袁紹に従うことを憂いていた。公孫瓚は趙雲の来付を喜び、趙雲を嘲笑して「聞くところでは、君の州の人は、みな袁紹に付くことを願っているという。君はどうして、ひとり心をめぐらせ、迷ったのちに正道に戻ることが出来たのか?」と言った。趙雲は「天下はがやがやと勝手なことを言っていますが、未だどれが正しいのかを知ることができず、民には逆さ吊りにされるような災厄があります。わたしの州の議論は、仁政のある所に従います。袁紹殿を軽視し、個人的に将軍(公孫瓚)を尊重したわけではありません」と言った。こうして公孫瓚とともに征討した[3]

公孫瓚配下時代

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劉備との出会いと別れ

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この時、公孫瓚の元に身を寄せていた劉備と出会い、これが二人を結びつける機縁となる。次第に劉備と趙雲は仲を深めていった[4]

 
正定県趙雲故里にある趙雲像

青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎(騎兵隊長)[注釈 1]となった。

その後、趙雲の兄が亡くなり、服喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった。劉備は、趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟り、趙雲の手を固く握って別れを惜しんだ。趙雲は別れの挨拶をして、「絶対にあなたの御恩徳に背きません」と答えた[5]

劉備との再会

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建安5年(200年)頃、曹操に追われた劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲はで久しぶりに劉備に目通りした。再開を喜んだ劉備は、趙雲と同じ牀(ベッド)を共にして眠った。劉備は趙雲を派遣して募兵させて、密かに募った数百人の兵を連れて、みな劉備左将軍の部曲(私兵)と称したが、袁紹はこの動きに全く気付かなかった。こうして趙雲は劉備に随って荊州へ逃れた[6]

劉備配下時代

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旧友を生け捕る

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建安8年(203年)、博望坡の戦いで敵将の夏侯蘭を生け捕る武功を挙げたが、彼が小さいころからの同郷の友人であることから、劉備に助命嘆願すると共に、法律に明るい人物として彼を軍正に推挙した。その結果、夏侯蘭は軍正として登用されたが、趙雲は以降、降将の夏侯蘭が無用の疑いをかけられぬよう、自分から彼に接近しないように気遣った[7]

長坂坡の戦い(長坂の戦い

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趙雲(長坂の戦い)

建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る精鋭5,000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて臣下数十騎と逃走した。劉備の娘2人は曹純に捕らえられたが、趙雲が劉禅(阿斗)を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、無事2人は危機を免れることができた。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。

この時、趙雲が北に逃げ去ったと言うものがいた。劉備は手戟を投げつけて、「子龍はわたしを棄て逃げることはない!」と怒った。ほどなく趙雲が到着した[8]

荊州平定

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同じく建安13年(208年)、荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる(赤壁の戦い#南郡攻防戦)。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁の樊氏(未亡人)を趙雲に嫁がせようとした。趙雲は「わたしとあなたは同姓ですから、あなたの兄なら、わたしの兄のようなものです」と、同姓を理由に断わった。樊氏は絶世の美女であったので、なおも趙雲に娶るように薦める者がいた。趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者ではありません。それに、天下に女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。その後、趙雲の警戒通り、趙範は逃亡したが趙雲は何の未練も持たなかった[9]

阿斗を再び救う

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劉備は趙雲を留営司馬に任じた。そのころ、劉備の正妻となっていた孫権の妹である孫夫人(孫尚香)は、孫権の妹であることを鼻にかけ、呉の官兵を率い、侍女には武装させて軍法を無視するわがままぶりを発揮し、劉備は手を焼いていた。劉備は趙雲が厳格で公私をわきまえ、全体を引き締めるに最適の人物であると判断し、趙雲を目付役(監視役)としてこの役に任命した[10]

孫権は劉備が入蜀したことを知ると、船を出し孫夫人を呉に帰らせたが、その際に孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。諸葛亮は趙雲に命じ、張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した[11]。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている[12]

益州平定

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建安18年(213年)、諸葛亮張飛劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた[注釈 2]

益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした。趙雲は「益州の民衆は度重なる兵火に見舞われ、田地も屋敷も荒れ放題でございます。今はこれを民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば、自然と心服するでしょう」と反対した。劉備はその意見に賛成し、従った[13]

定軍山の戦い

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建安24年(219年)、漢中攻め(定軍山の戦い)で、曹操軍の兵糧を奪うため、黄忠は趙雲の兵を借り出陣したが、約束の時間を過ぎても戻ってこなかった。心配した趙雲は少数の兵を率いて軽装で偵察へ向かったところ曹操の大軍と出くわしたが、見事な撤退戦で無事に囲(拠点)へと戻った。この際、敵陣に取り残された張著を救出した[14]

しかし曹操軍は再び盛り返し、趙雲らの囲まで追撃してきた。囲には沔陽長の張翼がおり、張翼は門を閉じ拒守しようとしたが、趙雲は囲に入ると大いに門を開き、旗を伏せて太鼓を止めさせた。曹操軍は趙雲に伏兵があると疑い引きあげた。そして、趙雲は雷のように太鼓を天を震わせるほどたたき、で後から曹操軍を射た。曹操軍は驚き、混乱の中、互いに蹂躙し漢水の中に落ち、大勢が死んだ[15]。これが後に空城計と呼ばれる心理戦である。

劉備は翌日の朝、趙雲の囲に自ら向かい、昨日の戦いの場所を視て、「子龍の一身はすべてこれ肝である(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と称賛した。楽を演奏し、宴会は夕方にまで至った。軍中は趙雲を号して虎威将軍とよんだ[16]。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。『三国志演義』にて、諸葛亮が空城計を用いて司馬懿ら魏軍を退けるエピソードがあるが、この趙雲の空城計がモデルとなっている。

対呉戦争

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章武元年(221年)、を討とうとする劉備に、趙雲は「国賊は曹魏であり、孫権ではありません。魏を撃つことが先であり、魏が滅べば呉はおのずと降伏するでしょう。曹操は死にましたが、子の曹丕は漢室を簒いました。このときをはずさず、衆心を集め、早く関中を経略し、黄河・渭水の上流を確保して凶逆を討伐するならば、関東の義士は必ず兵糧を持ち、馬に鞭あて王師を歓迎するでしょう。魏をおいて、先に呉と戦ってはなりません。いったん戦端を開けば、それは終結させがたいものではありませんか」[注釈 3]と諫めたが聴き容れられず、対呉戦争(夷陵の戦い)では、趙雲は江州督として留まった。劉備が敗戦すると永安まで兵を進め劉備を救援した[18]

劉備の死~劉禅配下時代

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その後、病を発し病床に臥せた劉備は章武3年(223年)4月に白帝城にて崩御した。建興元年(223年)5月、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。

第一次北伐

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建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。建興6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、曹叡曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共に別動隊を率いてその相手をする事となり、その間に諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 4]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。

しかし趙雲が自ら殿(しんがり)を務め、兵を巧みに取りまとめて軍需物資を殆ど捨てずに退却に成功した。諸葛亮は、副将の鄧芝に「街亭の戦いでは、わが軍が撤退するとき将兵はばらばらになったが、箕谷の戦いでは撤退するときでもわが軍はまとまることができた。これはどういうわけか?」と尋ねた。鄧芝は「それは趙雲将軍のおかげであります。将軍自らが殿となり、軍需品や器物をほとんど捨てずにすみ、わが部隊はまとまりを失わずすんだのです」と答えた[19]。諸葛亮は恩賞として、趙雲が持ち帰った軍需品の絹を将兵に分配しようとした。しかし趙雲は、「敗軍の将に恩賞があってはなりません。どうかそのまま残して赤岸(赤崖)の倉庫におさめ、10月になるのを待ち、冬の下賜とされますようお頼みします」と進言した。この趙雲の進言に、諸葛亮は大いに喜んだ[20]

その後、敗戦の責任から諸葛亮共々降格となり、自身は鎮軍将軍に降格された[注釈 5]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。『水経注』によると、この撤退戦の際、赤崖より北の百余里に渡る架け橋を焼き落すことで、魏軍の追撃を断ち切っており、その後しばらくは鄧芝と共に赤崖の守りにつき、屯田を行っている。

最期

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建興7年(229年)卒。子の趙統が後を継いだ。

死後

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景耀4年(261年)3月、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬費禕陳祗夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。

劉禅は詔勅で、「趙雲はかつて先帝に従い、その功績はすでに顕かである。朕は幼いときに困難に直面しながらも、彼の忠誠と従順を頼りに危険から身を救うことができた。諡号とは、大きな功績を記す英雄を指す。世間では趙雲に諡号を贈るのは当然のことだと取り沙汰している」と述べた[23]。大将軍の姜維たちは会議を行い、以下を上奏した。

「考えますに、趙雲はむかし先帝に従い、その労苦・功績はすでに顕かであります。天下を巡り働き、法律を遵守し、功績は記録すべきものがございます。陛下をお救いした当陽の役(長坂坡の戦い)では、義は金石を貫き、忠は至上を守るに十分なものでした。君主がそれを賞することを思い、礼により下に厚くすれば、臣下はその死を忘れます。死者であり知覚があれば、それは不朽とするに足ります。生者であり恩に感じいれば、それは身を投げ出すに足るものです」[24]

「謹んで諡法を調べますに、柔順で賢明で、慈愛を持ち恵愛にあふれることを『』といい、仕事を行う際に秩序のあることを『』といい、災禍や反乱を打ち勝ち平らげることを『』といいます。趙雲に諡して順平侯というべきです」[25]

逝去時期の違いについて

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正史では「建興7年(229年)卒」となっているが、諸葛亮が建興6年(228年)11月に上奏したとされている『後出師表』では、「漢中に至ってより一年、趙雲・陽羣馬玉閻芝…(略)…を失った」[26]とあり、228年11月以前に趙雲が亡くなっていることになっている。そのため、『後出師表』について真作か偽作かで研究者の間でも主張が分かれ、結論が出ていない。

家族

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親族

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  • 兄: 名は不詳。『趙雲別伝』に記載がある。趙雲が公孫瓚配下時代に亡くなっている。『三国志演義』には登場しない。

子孫

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  • 趙統: 長男。趙雲の死後、後を継いだ蜀漢の武将。『三国志演義』では弟と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 趙広(趙廣): 次男。蜀漢の武将。沓中での戦いにて戦死。『三国志演義』では兄と共に趙雲の墓守を命じられる。
  • 関樾: 趙雲の娘(趙氏)と、関羽の長男である関平との間に生まれたとされる人物。

趙雲別伝の信憑性と見解

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『別伝』についての解説

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「別伝」とは、主に後漢時代から東晋時代までにおける、単独の人物に関する伝記である。その多くは名士を中心とした知識人層の名声を高める目的を持っていたが、中にはあまり重要視されなかった人物に焦点を当てるためや[27]、あるいは晋代以降に世家の子弟が多く就任していた秘書郎や佐著作郎の課題として書かれた[28]。後漢時代から続く人物評の流行のみならず、魏晋時代における名士層の気風の発達に伴い盛んに製作された別伝は、対象の人物に関する雑多な内容が盛り込まれており、「正統」である史書とは異なる視点や性質を有するほか[29][30][31]、表現に小説的技法が見られるのが特徴である[32]裴媛媛によれば、別伝の作者名が往々にして無記載である理由としては、単なる佚名によるもの以外では、別伝が成立する初期段階では書面ではない逸聞の寄せ集めに過ぎなかったために、それを引用する後世の歴史家たちが便宜的に「別伝」という通称を用いたこと、またそれらの逸話が単独の人物ではなく複数人から伝わったことも挙げられる[33]。だが時には、『孫資別伝』に対して裴松之が指摘しているように[34]、家伝由来の伝記であるために該当する人物の失点を隠して記されたものも存在した[35]。また顔師古が『東方朔別伝』について「みな実際の出来事ではない」と難じたように、怪奇現象などの確証に欠ける逸話が載せられることもあった[36]。とはいえ、全ての別伝がそれらと同様に信憑性が低いとは限らず、依然として別伝の史料的価値は高いといえる[37][38]

史書は後漢時代まで国家が編纂するものであった(ただし、国家が編纂することにより偏向が生まれることもある)。裴松之が『三国志』に注をつけて引用した数々の書物を批判し、史実を確定しようとしたのは、不確実な内容を記す史書が増えたためであった[39]。『趙雲別伝』には趙雲が活躍する記述が多いのに対し、陳寿による本伝の記述は簡素[注釈 6]であることから、その信憑性を疑う声も少数ある。しかし、引用した作品を厳しく批判したり矛盾を指摘する裴松之が、『趙雲別伝』には一切疑問を呈しておらず、また三国志研究者の論文や著作物でも、史書を補う資料として扱うのが通例である。

採用者および肯定派の見解

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  • 裴松之: 『三国志』の注釈として引用し、内容について批判・指摘をしていない。
  • 司馬光: 『資治通鑑』を編纂するにあたって、『趙雲別伝』の記述を採用している。
  • 渡邉義浩: 「裴松之は、『趙雲別伝』については、内容的な誤りなどを指摘することはない。裴松之は、『三国志』を補うことができる史料と認定していたと考えてよい」と述べている[40]
  • 矢野主税: 対象の人物の功績を残すのみならず、その人物周辺の政治的動向が反映されていることから、別伝は「一般史書の欠を補う貴重な史料」だと論じ、その一例として、『趙雲別伝』内に「蜀の後主が〔〕雲の死後賜った詔をのせているが如きにも見られる」ことを挙げている[41]。また、家伝に依拠した可能性も踏まえつつ、「当時、世上に流布していた人物評を基として書かれた」という作品的性質から、別伝とは「ある個人の作というよりも、当時の社会の作というべきもの(中略)換言すれば、門閥社会の、その人物に対する評価」ではないかとも述べている[42]

否定派の見解

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  • 何焯: 趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なることを指摘し、また第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたことには「諸葛亮は賞罰が厳粛であるのに、趙雲を降格する一方で、どうして妄りに報奨を与えられるものだろうか。そうでないことは明らかだ。別伝の類はみな子孫が美辞で飾り立てたものであるため、承祚(陳寿)は採用しなかったのだ」と述べており、『趙雲別伝』の記述を批判する傾向にある[43]。劉備の呉討伐に対する諫言については、国家経営は諸葛亮の担当であり、彼が諫めるのは当を得ているが、趙雲のような武臣が口を挟むのは分不相応である[注釈 7]として、「〔趙雲の〕家伝は〔他人の〕美談を奪い取っているのだ」と主張する。また劉備の大敗を受けて諸葛亮が想起したのが法正だったことに触れながら「雑号将軍〔である趙雲〕の及ぶところではない」とし、さらには、『趙雲別伝』は諸葛瑾の書状や孫権が帝位を称した際の諸葛亮の言葉を模倣したのだろうとも述べている[45]

その他

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  • 李光地中国語版: 「趙雲の美徳はみな『別伝』に見られるが、本伝では全く触れられていないのは、なぜなのだろうか」と疑問を呈している[46]

評価

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成都武侯祠の趙雲塑像。清代に作られたもので、別格扱いの関羽、張飛を除くと、蜀漢の武将陣の中でも趙雲の像が筆頭の位置に置かれている。

後世、中国では趙雲を、目上に対して臆せず諫言する勇敢さに加え、文官的な知性、大臣の気質を持つ儒将として高く評価した。清代に作られた成都武侯祠の趙雲の塑像が、文官の服を着せられているのはこのためである。清代は『三国志演義』の流行により、更に高まった趙雲の人気もあり、蜀漢の武将としては、武将廊に筆頭の位置に置かれている。

また、康熙61年(1722年)には歴代帝王廟に趙雲が従祀名臣の列に加わっている[注釈 8]

その他評価

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  • 陳寿: 「黄忠と趙雲は、共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となった。灌嬰滕公のともがらであろうか」[注釈 9]
  • 楊戯: 「征南(趙雲)は厚重、征西(陳到)は忠克、共に選り抜きの兵を指揮し、勲功をあげた猛将であった」[49]
  • 李光地: 「張嶷と趙雲は、明瞭な頭脳と賢明さを備えている」[50]

三国志演義における趙雲

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『演義』での趙雲について

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『三国志演義』とは、『三国志』や元雑劇、『三国志平話』などを基にして、中国代に書かれた長編白話小説。著者は羅貫中の手によるものと伝えられている。趙雲に関しては、正史『三国志』(蜀書)趙雲伝の裴松之・注『趙雲別伝』のエピソードや趙雲の言動がそのまま採用、または引用されており、キャラクター造形もこの『別伝』をベースとし、そこに武力面が更に強調された、知勇兼備の槍の使い手の偉丈夫として活躍する。初登場時はまだ少年で、『身長八尺、濃い眉に大きな眼、広い顔に重なった顎、容貌は立派で、威風があり凛々しい姿』となっている。『三国志演義』を元にした後世の作品では、京劇の影響を受けて劉備たち桃園の四人目の兄弟(四弟)と呼ばれていたり、白袍銀槍、白馬に乗った若武者の美丈夫のイメージが現代まで続いている。プライドの高い関羽、乱暴者の張飛と違い、冷静沈着な性格の趙雲は孔明から与えられる任務を素直にきっちりこなすので、孔明から特に信頼され重用されている。関羽・張飛・馬超・黄忠と並んで五虎大将軍(五虎上将・五虎将とも)の一人となっている。

仁君を求めて

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公孫瓚の下で活躍する趙雲

正史とは違い、演義では最初袁紹に仕えていたが、袁紹には国や民を救済する心がない人物だと判り、少年・趙雲は公孫瓚の指揮下に入ろうとした。公孫瓚が袁紹配下の文醜に襲われていたところに遭遇し、公孫瓚を助けるため文醜と五、六十合渡り合ったが決着はつかず、文醜は馬を返して去って行った。公孫瓚は慌てて趙雲の元に駆け寄り感謝し、臣下に迎えて共に陣営へと戻った。

その後、公孫瓚配下の将として活躍をするが、界橋の戦いにて袁紹軍の追撃に遭ったところで劉備、関羽、張飛たちが公孫瓚軍の加勢にやってくる。こうして趙雲は劉備と出会った。公孫瓚は劉備に礼を言い、趙雲を引き合わせた。この時劉備は趙雲に大きな敬愛の念を抱き、趙雲もまた劉備に惹かれ、お互い離れがたく思った。

劉備と別れる時、劉備と趙雲はお互いの手をとって涙した。劉備は「子龍どのはひとまず心を強く持って公孫瓚に仕えてください。またお会いできる日はあります」と、涙を流して二人は別れた。その後、公孫瓚は袁紹に敗れ、趙雲は袁紹からしきりに臣下になるよう招かれるがこれを固辞し、各地を放浪の末に劉備と再会し、二人は大いに喜んだ。こうして趙雲は劉備軍の配下となった。

長坂坡の戦い

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穣山の戦いを経て、曹操の大軍に攻め寄せられた劉備軍は城を棄てて、劉備を慕う民衆と共に逃げ出すが、長坂坡で追いつかれ、混乱の中で趙雲は劉備の妻子を見失ってしまった。趙雲はひとり戦場を駆け回っていた所、敵将の夏侯恩に遭遇する。これを討ち取り、夏侯恩が曹操から授かっていた宝剣『青釭剣(せいこうけん)』を手に入れる。さらに戦場深く入っていき、ようやく阿斗(劉禅)と糜夫人を発見した。糜夫人は足手まといになることを恐れて趙雲に阿斗を託して井戸に身投げしてしまう[注釈 10]。趙雲は曹操軍に糜夫人の亡骸を盗まれないよう、土塀を崩して井戸を覆い、阿斗を懐に抱えて馬に乗って、曹操軍の大軍を単騎で戦い駆け抜けた。

曹操は縦横無尽にひとりの大将が戦場を駆け巡る姿を眺め、「あれは誰か?」と左右の物に聴いた。曹洪が山から下りて大声で問うと、趙雲は「我こそは常山の趙子龍!」と答えた。曹操は趙雲を手に入れたくなり、「矢を射てはならぬ、生け捕りにせよ」と命じた。これが幸いして、趙雲はこの難から逃れることができた。

それでもまだ追ってくる敵将を次々に青釭剣で討ち取り、袍に大量の返り血を浴びながらも無事に劉備の元へ戻ることができた。趙雲は劉備の前にひざまずいて泣きながら糜夫人の死を告げ、阿斗を差し出した。劉備は阿斗を受け取ると、地に放り投げてしまう。劉備は阿斗に「おまえのような子供のために、ひとりの大事な将軍を失うところであった!」と言った。趙雲は泣きながら「肝脳地にまみれさせても、このご恩に報いることはできません」と涙した。

桂陽太守・趙範との戦い

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赤壁の戦いの後、劉備は荊州南部の四郡(武陵・長沙・桂陽・零陵)を領有するために動き出す。桂陽攻略では趙雲が名乗りをあげるが、張飛も名乗りをあげて二人は喧嘩になる。そこで諸葛亮は二人にくじを引かせて、結果趙雲が向かうことになった。桂陽太守の趙範は降伏しようとするも、臣下の陳応が反対したので、三千の兵を与えて趙雲を攻撃させることにした。しかし陳応は趙雲にあっさり撃退されてしまう。趙範は降伏を願いでた。

趙範は趙雲と同じ姓で真定出身であり、さらに趙雲と同い年生まれであったのでふたりは喜びあった。趙雲の方が4ケ月生まれが早かったので、趙範は趙雲を兄として義兄弟のちぎりを結んだ。酒宴が開かれ、たけなわになった頃、趙範は一人の女性を呼び入れた。その女性は大変美しく、趙雲がこの女性は誰なのかと問うと、趙範の亡くなった兄嫁の樊氏だという。趙範は「兄嫁は再婚するのに三つの条件を述べ、一つ目は名声をとどろかせており、二つ目は顔立ちが優れていること、三つ目は文武ともに優れて、知性を備えていることです」と述べて、その条件を満たしている趙雲こそ娶るに相応しいと喜んで勧めた。趙雲は「おまえの兄嫁はわたしの兄嫁でもある。どうしてそのような道理に背くことができるのか!」と大いに怒り、拳で趙範を殴り倒して、怒って城を出て行った。

趙範は臣下の陳応と鮑隆(龍・竜)を呼びつけ、偽りの投降をして隙をついて趙雲を捕らえる計画を立てた。その夜、二人は趙雲の陣営にやってきて投降するも、趙雲はこれが偽りだと見抜いて酒で酔わせて縛り上げた。二人の配下に詰め寄るとやはり偽りの投降であったことが判ったので二人を斬り捨てた。ふたりの配下の五百の兵に道案内をさせ、千の兵を率いて桂陽城に向かう。慌てた趙範は城から逃げ出すが捕らえられてしまった。

早馬で桂陽の陥落を知った劉備と孔明は桂陽に赴き、趙範がやったことは好意からであり、敵意がなかったことを知ると、劉備は樊氏を娶ることを趙雲に薦めるも、趙雲は「天下に女性はたくさんおります。(劉備の)名声が落ちてしまいます。どうして妻子がいないことを憂えましょうか」と固辞し、劉備は感嘆した。そして趙範を解放してそのまま桂陽太守とし、趙雲は賞された。

劉備の結婚

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劉備は孫権の妹(孫夫人・孫尚香)との縁談を孫権から薦められて、この申し出を受けることにした。趙雲は呉に向かう劉備の護衛として同行することになった。諸葛亮から三つの錦袋(錦嚢の計)を授かり、困ったときに順番に開けるように命じられる。この婚姻話は周瑜・孫権による、劉備を暗殺するための罠であったが、三つの錦袋の中の指示に従って、数々の困難から趙雲は劉備を守りぬき、呉国太にもふたりの婚姻を認められ、無事に劉備と孫夫人は夫婦となって荊州へ戻ることができた。

阿斗の奪還

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孫権は劉備が益州に入ったと知ると、呉国太が危篤であると偽りの書状を孫夫人に届けて江東に連れ戻そうとした。同時に阿斗も連れ出して荊州と交換させようと考えていた。趙雲は孫夫人とともに阿斗がいないことに気付き、慌てて孫夫人の船を追いかけた。呉兵から抵抗され孫夫人に罵られるも、隙をついて趙雲は阿斗を奪い返した。見回りから帰ってきた張飛が油江を慌てて塞ぎ、呉の船に飛び乗って、阿斗だけは返してもらって孫夫人は見逃すことにした。こうして無事に阿斗を連れ戻すことに成功した。

益州平定で諫言する

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劉備が益州を平定すると、成都にある田地や屋敷を諸将に分け与えようとするのを趙雲が「民衆に返し、安心して仕事に戻れるようにし、それから賦役を行なえば自然と心服するでしょう」と諫め、劉備はこれを聴きいれた。

空城計で魏軍を破る

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諸葛亮は曹操軍の北山の食料を焼き払って輜重を奪うため、黄忠と趙雲を派遣する。ふたりはくじを引いて黄忠が先鋒、趙雲が陣営の守りについた。約束の時刻になっても黄忠が戻らなければ、趙雲も出陣する取り決めをした。

約束の時刻になっても黄忠が戻ってこなかったので、趙雲は張翼に陣営の守りをまかせ、急いで黄忠の元へ向かった。阻む魏兵を倒しながら、黄忠たちが張郃徐晃に囲まれているのが目に入った。趙雲が大声で叫んで馬を走らせると、二人は驚いて迎え撃つことができなかった。黄忠を無事に救出して本陣へと馬を走らせた。曹操は驚いて諸将にあの将は何者かを問い、趙雲だと知ると「長坂の英雄は健在だったか」と、あの者を軽んじてはいけないと伝令を出した。途中、張著を救出し、本陣へと到着した。

曹操軍が本陣に迫ってきていることを知り、張翼は門を閉め防衛するように趙雲に伝えるが、趙雲はこれを拒んで弓弩兵を陣営外の壕に伏せさせて、陣営内の旗を倒して音を立てないようにし、ひとり馬に乗って槍を手にして門の外に出た。張郃と徐晃は兵を率いて追いかけてきたが、陣営の門が開かれ、ただ一人趙雲が陣営の外に構えて立っているという異様なありさまであった。そこへ曹操が自らやってきて前進するよう促した。しかし魏兵が陣営前に大声で走り出るも趙雲はまったく動じない。逃げようとした曹操軍に、趙雲は槍を振るい合図すると壕の中から弓弩がいっせいに放たれ、曹操軍は混乱し、互いに踏みつけ押し合い、漢水に落ちて多数の死者が出た。こうして蜀軍は曹操陣営を占領し、食料と輜重を奪うことができた。報告を受けた劉備と諸葛亮は漢水までやってきて、配下から詳細を聴いた劉備は諸葛亮に喜んで言った。「趙子龍は全身肝っ玉である!」

関羽の敵討ちを諫める・劉備の死

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関羽が呉に殺されたため、劉備は軍を率いて弔い合戦をすると詔を下した。趙雲は諸葛亮と共にこれを諫めて止めようとするも、劉備はこれを聴きいれず、こうして対呉戦争へと行ってしまう。その途中、張飛は苛烈な私刑でむち打ちにした部下二人に恨まれ、暗殺されてしまう。さらに夷陵にて劉備軍は陸遜の火計に遭い大敗を喫する。劉備が狼狽していると前方から江州にいた趙雲が援軍を引き連れてやってきた。陸遜は趙雲がやって来たことを知ると軍を撤退させた。劉備を救った趙雲は白帝城を目指して逃走した。この戦いで多くの将兵が戦死してしまい、劉備は心労から病にかかってしまう。病状は回復せず、ある晩、夢の中に死んだ関羽と張飛を見る。死期を悟った劉備は諸葛亮と趙雲を呼び寄せて後事を託す。劉備は趙雲に「朕はお前と共に艱難の中今までやってきた。ここで別れるとは思わなかった。古くからの交わりを思い、どうかいつも幼子を気に掛けてやってくれ。朕の言葉をたがえないでほしい」と言った。趙雲は涙を流して地に拝し「わたしは犬馬の労で社稷をお支えいたします」と言った。

南蛮平定・北伐へ

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諸葛亮は、北伐を進める前に後顧の憂いを断つべく、度々反乱が起きる南蛮の地を平定すべく南蛮征伐を開始し、趙雲もこれに同行する。馬謖の「心を攻めるは上策、城を攻めるは下策」の案を採用した諸葛亮は、南蛮王の孟獲を七度捕らえて七度目も解放しようとしたところ、孟獲はようやく心から蜀に降伏した。

南蛮から帰還した諸葛亮は皇帝となった劉禅に出師の表を奏上して、ついに北伐に取り掛かる。この時老兵となっていた趙雲は、北伐の人選からもれていたので抗議の声をあげる。孔明は「子龍将軍のお年は高く、もし間違いがあればこれまでの名声がぐらついてしまいます。蜀の英気をもくじいてしまうのです」と説得するも、趙雲は「戦場で死ぬことができれば幸いで、わたしは後悔はありません。どうか先鋒をご命令ください」と聞かなかった。鄧芝が趙雲と共に先鋒に行くことに名乗りをあげたので、諸葛亮は精鋭五千と副将十人をつけて二人を出発させた。趙雲は韓徳の八万の軍勢とぶつかるが、韓徳の息子たちをつぎつぎに討ち取り蹴散らした。鄧芝は「まさかすでに七十になっているとは思えません」[注釈 11]と趙雲の猛将ぶりを称えた。

韓徳は戻って夏侯楙に報告し、夏侯楙みずから軍勢を率いて趙雲に攻めてきた。趙雲は韓徳を討ち取り、鄧芝も兵を率いて攻撃すると夏侯楙の軍勢は撤退したが、程武が逃走を装い、伏兵がいるところまで趙雲を誘い込み、幾重にも包囲するという計略を進言して実行した。趙雲は深追いしてこの計略にはまってしまった。孤立した趙雲は脱することができなかった。「わたしも老いに従わなかったのでここで死ぬのか」とため息をつくと、東北の方角から鬨の声があがった。軍勢が突撃してきたので魏軍は次々に逃げだした。その軍勢の先鋒は張飛の息子の張苞であった。関羽の息子の関興も到着し、二人の力によって趙雲は窮地を脱することができた。

老将趙雲・最後の戦い

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馬謖の敗北により、諸葛亮の退却命令を受けて趙雲らは箕谷から軍を退かせようとするが、魏軍の猛追を抑えるため、鄧芝が本隊を率いて退却し、趙雲は別動隊を率いて敵の背後に回った。魏軍は山坂の後ろから現れた趙雲らの軍勢に驚き、蘇顒他次々に敗れ、残った兵たちも散ってしまった。趙雲は車や人馬を守りながら漢中を目指し、無事に諸葛亮の元へ帰還した。諸葛亮は趙雲の軍が一人一騎も失っていないことを問うた。鄧芝は「子龍どのは一人で殿となられたので、それがしは兵を率いて先行いたしました。子龍どのが将を斬り、功をあげられ敵をひるませたおかげで、わが軍は物資を放棄しなかったのです」と言った。諸葛亮は喜び、倉の中から金五十斤を趙雲に贈り、絹1万疋を兵たちへの褒美とした。しかし趙雲はそれを辞退し、「三軍に何ら功はなく、わたしたちにはそれぞれ罪がございます。もしこの褒美を受け取ってしまったら丞相の賞罰が明確ではないことになります。ひとまず庫におさめて、冬になってから諸軍に配っても遅くはないかと存じます」と述べた。諸葛亮は「先帝がおられた時、子龍どのの徳を称賛されていたが、今それが改めて分かった」とますます敬服した。

趙雲の死

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ふたたび北伐をすすめるべく、諸葛亮は宴会を開いて諸将と打ち合わせをしていた時であった。突然一陣の風が吹き、庭の松の樹が折れてしまった。不吉な予感がした諸葛亮の元に、趙雲の息子の趙統と趙広がやってきた。二人は「父が昨晩、病状が悪化し世を去りました」と拝して泣きながら言った。諸葛亮は地団駄を踏み、「今年多くの将を失ってしまった。今日子龍どのも亡くなり、国家は棟木と梁を失い、わたしは片腕を失ってしまった」と泣いて言った。後主の劉禅もまた、その言葉を聞くと声をあげてひどく泣きながら言った。「朕は昔、幼いころ子龍がいなかったら乱軍の中できっと死んでいたであろう」劉禅は趙雲に大将軍・順平侯の爵位を贈り、成都の錦屛山の東に埋葬して、廟堂を立てて春夏秋冬、祭りを行うよう命じた。

三国志演義における趙雲の解説

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上野隆三は、『演義』における趙雲像について、『三国志』趙雲伝の注に引く『趙雲別伝』の記述から見出される知的な印象に、勇猛さが新たに多く書き加えられたことで、文武両道の儒将のイメージが作り上げられたと述べている[55]。また五虎大将の序列について、先述した『演義』の操作により趙雲は馬超や黄忠よりもめざましい活躍を見せたため、毛宗崗本とも呼ばれる『演義』で最も普及する版の編者である毛宗崗中国語版が、史書では5番手の趙雲を3番手まで引き上げたのではないかと論じている[56]

民間伝承・その他

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演劇で用いられる趙雲の仮面

白龍

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白龍』(はくりゅう)、もしくは『白龍駒』(はくりゅうく)という名の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。白龍の話は映画『レッドクリフ』で採用されている。

子龍池(洗馬池)

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四川省成都にかつて存在した、趙雲が住んだと伝わる官邸裏にあった池。『子龍洗馬池』とも。白龍とともに趙雲が傷を癒したという。その後は邸宅の所有者が何度も変わり、その都度改築などを経て、1950年頃には池は埋め立てられ、『子龍塘街』から現在の『和平街』に改名された。跡地にある和平街小学校に『漢順平侯洗馬池』の石碑がある。以下は子龍池にまつわる伝承である。

南宋時代、蒙古の襲撃を受けて成都は大きな被害に遭い、蒙古の皇太子・カシンはこれを誇らしげに眺めていた。そこへ突然、白袍姿に銀槍を抱え、白馬に乗った将軍が現れた。英気あふれる彼は常勝将軍・趙雲にとても良く似ていた。彼は「兵よ集え、賊に抗え!我と国を守れ!」と大喝して蒙古兵に突撃した。蒙古兵は次々に槍で突かれ、死体は山のように築かれた。白袍の将軍に従った兵たちは、ついに蒙古兵を成都から追い出すことができた。後日、成都の人々はみな「あれは趙子龍が顕現して蒙古を倒してくれたのだ」と言った。趙雲はかつて子龍池(洗馬池)で馬を洗っていたので、人々はその池の横に楼閣と塔を建て、馬に乗り跳躍した趙雲の塑像を祀った。毎日絶え間なく香が焚かれ賑やかだったという。[57]

涯角槍

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読みは(がいかくそう)。『三国志平話』に書かれる。長さ九尺(約3メートル)あり、「生涯に敵う者なし」という意味で名付けられている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。

金牛山の剣

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古今刀剣録』に「章武元年(221年)、蜀主である劉備が金牛山から鉄を採取し、長さ三尺六寸の剣を八本鋳造した」とあり、そのうちの一本を趙雲に与えたと書かれている。[58]

戒指

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趙雲が指輪を見につける文化を広めたとの伝承がある。『益州』と『荊州』で幾つかの違った話がある他、趙雲の故郷である河北省正定出身の語り部周四成の『趙子龍與戒指』の話に見られる内容では、『益州』の話に京劇や他の語り部に見られる「徐庶が趙雲を救う」エピソードが加えられ、詳細が語られている。

  • 益州版: 趙雲が長板坂で阿斗を救出して包囲を突破したとき、張郃と曹洪から薬指に深い傷を負った。傷痕はかなり目立ち、醜く感じたので、趙雲は職人に傷を隠すための金の輪(蓋指)を作らせた。
  • 荊州版: 荊州版は2種類あり、共通点として「趙雲の死後、彼の生前着飾った姿の像が作られ、その指には金の輪をはめていた。人々はそれを真似て身に着け、その習慣が今日、指輪として民間に広まった」[59]とされている。 相違点は、像の由来が『戴戒指的来歴』では「後主・劉禅は趙雲が命を救ってくれたことに感謝し、趙子龍の像を作った」と書かれている点と、『荊州人戴戒指的来歴』では「荊州の関帝廟にある趙雲の像」[60]に基づいており、「指輪は荊州の人々のお気に入りの装飾品になった」とされている。
  • 正定版: 「(趙雲が長坂坡で徐庶に助けられ窮地を脱したが、その時、張郃・曹洪から指に傷を負ったので指輪で傷を隠した。)その後、劉備の軍隊が四川に入城すると、益州の人々は趙雲が手に輝く指輪をしているのを見て、彼らも指輪をつけるようになった。今日、指輪をつける習慣が四川省の成都と綿陽の人々の間で今も伝承されている」[61]

趙雲の死にまつわる話

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四川省大邑県と河北省正定県ほか、複数の伝承がある(趙雲の妻が関連する死については孫軟児#趙雲の死と刺繍針を参照)。湖北省咸寧地方には『趙雲得意笑死』という伝承がある。以下はその内容。

「『三国志演義』には、趙雲は老衰で死んだと書いてある。私たちは、年配の人たちから「趙雲は笑い死にした」という違う話を聞いたことがある。 「周公瑾は怒って死んだが、趙子龍は笑って死んだ」という古い話。

趙雲の72歳の誕生日。宴会が用意され、誕生日を祝いに来た親戚や友人らは老将軍に乾杯して、その生涯の功績を称える歌を詠んだ。「20歳、先帝(劉備)に従い、命懸けで戦い続けた。30歳、当陽の地にて単騎で後主(劉禅)を救って名を揚げた。40歳、長江を渡りて後主を連れ戻した。50歳、南蛮征伐に向かい、軍の柱となった。60歳、祁山に出でて曹軍の五将軍を斬った。70歳、あなたは元気そのもので、優れた馬と槍を持ち、将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双。」これを聞いた趙雲は手を振って言った。「いやいや、今日の常山の趙子龍があるのは、我が君と、皆様の支えがあったからこそです!」

宴会が終わり、招待客がみな帰ったあと、趙雲は突然筋肉と骨が腫れているのを感じた。彼は「長い間戦場にいなかったから、違和感があるのだろうか?風呂に入ろう。」と思い、一人部屋に閉じこもって服を脱いで裸になった。この身体は何百回の戦いを経ても、一度も怪我をしたことがなく、傷一つない。皆が詠った言葉を思い出す。 「将軍は全身が肝っ玉、百戦百勝、世の無双。」

「はははははは…」思わず大声で笑うと、息が切れた。彼は名誉の死を遂げた。」[62]

  • 孫軟児: 民間伝承に出てくる妻(詳しくは『孫軟児』を参照)。映画『三国志』(2008年)で軟児の名前が採用されている。
  • 李翠蓮: 河北梆子劇『青釭剣』の演目にて趙雲の妻として登場する。長坂坡の戦いで劉備達とはぐれた趙雲が、迷い込んだ村で出会い結婚する。

趙雲に関連する人物・故事など

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人物

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四字熟語

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  • 一身是胆(いっしんしたん)[63]: 強い勇気があり、何事にも恐れないことのたとえ。体全体に胆力が満ち溢れているという意味から。劉備が趙雲の勇ましさを称えたという故事から。
  • 満身是胆(まんしんしたん)[64]: 一身是胆の類義語。

趙雲を主題とした作品

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映画
テレビドラマ
小説
朗読CD
  • 三国志 Three Kingdoms 公式朗読CDシリーズ “夷陵に燃ゆ” / 趙雲篇(2012年、主演:KENN
漫画
ゲーム
  • Three Kingdoms Zhao Yun(2024年、中国、ZUIJIANGYUE Game、ETime Studio、Merlion Games)※2024年6月時点では日本語未対応。

その他関連作品

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小説

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蜀漢滅亡後、劉備や諸葛亮、関羽、張飛、趙雲たちの子孫が活躍する。
新聞『民徳報』にて連載。馬超、趙雲、馬超の妹の馬雲騄が主人公。日本語訳は以下ふたつの版がある。

映画

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テレビドラマ

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アニメ作品

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ゲーム

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漫画

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『主騎』を『護衛隊長』と訳している書籍があるが、『新唐書/卷135・哥舒翰伝』に見られる「使王思禮主騎,李承光主步。(騎兵の主、歩兵の主)」や、『資治通鑑 第六十巻』には「為備主騎兵。」とあり、『騎兵隊長』と訳すのが正しい。
  2. ^ 『華陽国志』によると、翊軍将軍への昇進は劉備の漢中王即位後であり「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞。又以黄忠為後將軍,趙雲翊軍將軍。」と四将と並んで昇進したと記録されている。
  3. ^ 宮川尚志は「この意見は、新たに興った蜀漢のまさに進むべき国策を明確に認識したもの」と評し、「魏の領土となった華北を久しく放置すれば、民心はいつとはなしに漢の故土であったことを忘れ、魏政権を正しいものとみなしてしまうであろう。民心なおひそかに漢を思う間にこそ、堂々と実力に訴え、名分に正し漢の正統の権利を主張すべきである」と述べている。[17]
  4. ^ 諸葛亮伝および『華陽国志』によれば、趙雲らの軍は擬軍(少数の兵を多数に見せかけること)であったという。
  5. ^ 胡三省は、『晋書』職官志を根拠にすると鎮軍将軍は四征将軍・四鎮将軍の上位であるため、鎮東将軍から鎮軍将軍へとなるとむしろ昇格になることを指摘し、「思うに、蜀漢の制度では鎮東将軍は方面の鎮圧を専らにするものだから、鎮軍将軍は雑号将軍だった。それゆえ降格となるのだろう」と述べている[21]。しかし蜀の鎮軍将軍は四征将軍や四鎮将軍同様に上位職の鎮軍大将軍の位が置いてあり、雑号将軍であるとは考えづらい。盧弼は「『宋書』百官志では、鎮軍将軍は四鎮将軍と比較すると、四鎮将軍に次ぐ。『晋書』のいう鎮軍将軍は鎮軍大将軍のことであるから、四征将軍・四鎮将軍よりも上位なのだ」と述べている[22]
  6. ^ これは趙雲に限らず、蜀の人物が書かれた『蜀書』は『魏書』が全30巻なのに対して全15巻しかなく、また、武官は記述量が全体的に少なめではある。
  7. ^ ただし趙雲以外にも多くの臣下が諫めたとあり、秦宓は諫言により一時投獄された人物として秦宓伝に記述がある。[44]
  8. ^ この時、他に増祀された従祀名臣は、倉頡仲虺中国語版畢公高周呂侯仲山甫中国語版尹吉甫劉章魏相丙吉耿弇馬援狄仁傑宋璟姚崇李泌中国語版陸贄中国語版裴度呂蒙正李沆中国語版寇準王曾范仲淹富弼韓琦文彦博、司馬光、李綱趙鼎文天祥、呼嚕、博果密、托克托常遇春李文忠楊士奇楊榮于謙李賢劉大夏[47]
  9. ^ 李光地によれば、趙雲が幼い後主(劉禅)を拾ったことが、夏侯嬰が幼い恵帝を拾ったことに対応している[48]
  10. ^ 嘉靖版『三国志通俗演義』では、趙雲が逃げようとしない麋夫人を怒鳴ったことをきっかけに麋夫人が井戸に身を投げたことについて、趙雲は不忠者であるという註がつけられている[51]これに対し、王長友、陳遼は『嘉靖本』の割注を『毛宗崗本』では採用していない。王長友はこの割注を「愚直な考えを持った文人が付け加えたのであろう」(只能说明注文是另一个思想迂腐的文人所加。)と述べている。[52][53]
  11. ^ 登場時は少年だったので、北伐のこの時点で七十歳だと計算が合わない。少年=十九歳だとしても六十歳前になる。『演義』内でのこういった時間経過の描写について山本健吉は「物語作者が読者をあざむいていたことをこういうときほど痛感することはない。すぐれた物語は、時間を蕩盡してしまう。」と述べている[54]ように、七十歳とは時間の経過の表現とみられる。

出典

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  1. ^ 趙雲』 - コトバンク
  2. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳曰:雲身長八尺,姿顏雄偉,為本郡所舉,將義從吏兵詣公孫瓚。
  3. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。
  4. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 時先主亦依讬瓚,每接納雲,雲得深自結讬。
  5. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」
  6. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先主就袁紹,雲見於鄴。先主與雲同床眠臥,密遣雲合募得數百人,皆稱劉左將軍部曲,紹不能知。遂隨先主至荊州。
  7. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先是,與夏侯惇戰於博望,生獲夏侯蘭。蘭是雲鄉里人,少小相知,雲白先主活之,薦蘭明於法律,以為軍正。雲不用自近,其慎慮類如此。
  8. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳曰:初,先主之敗,有人言雲已北去者,先主以手戟擿之曰:「子龍不棄我走也。」頃之,雲至。
  9. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守,代趙範。範寡嫂曰樊氏,有國色,範欲以配雲。雲辭曰:「相與同姓,卿兄猶我兄。」固辭不許。時有人勸雲納之,雲曰:「範迫降耳,心未可測;天下女不少。」遂不取。範果逃走,雲無纖介。
  10. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先主入益州,雲領留營司馬。此時先主孫夫人以權妹驕豪,多將吳吏兵,縱橫不法。先主以雲嚴重,必能整齊,特任掌內事。
  11. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 權聞備西徵,大遣舟船迎妹,而夫人內欲將後主還吳,雲與張飛勒兵截江,乃得後主還。
  12. ^ 三國志/卷34(先主穆皇后《漢晉春秋》) 云:先主入益州,吳遣迎孫夫人。夫人欲將太子歸吳,諸葛亮使趙雲勒兵斷江留太子,乃得止。
  13. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳曰:益州既定,時議欲以成都中屋舍及城外園地桑田分賜諸將。雲駮之曰:「霍去病以匈奴未滅,無用家為,令國賊非但匈奴,未可求安也。須天下都定,各反桑梓,歸耕本土,乃其宜耳。益州人民,初罹兵革,田宅皆可歸還,今安居複業,然後可役調,得其歡心。」先主即從之。
  14. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 夏侯淵敗,曹公爭漢中地,運米北山下,數千萬囊。黃忠以為可取,雲兵隨忠取米。忠過期不還,雲將數十騎輕行出圍,迎視忠等。值曹公揚兵大出,雲為公前鋒所擊,方戰,其大眾至,勢偪,遂前突其陳,且鬥且卻。公軍散,已復合,雲陷敵,還趣圍。將張著被創,雲復馳馬還營迎著。
  15. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 公軍追至圍,此時沔陽長張翼在雲圍內,翼欲閉門拒守,而雲入營,更大開門,偃旗息鼓。公軍疑雲有伏兵,引去。雲雷鼓震天,惟以戎弩於後射公軍,公軍驚駭,自相蹂踐,墮漢水中死者甚多。
  16. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 先主明旦自來至雲營圍視昨戰處,曰:「子龍一身都是膽也。」作樂飲宴至暝,軍中號雲為虎威將軍。
  17. ^ 宮川尚志『諸葛孔明「三国志」とその時代』1988年、光風社出版、「昭烈帝呉を討つ」頁125
  18. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 孫權襲荊州,先主大怒,欲討權。雲諫曰:「國賊是曹操,非孫權也,且先滅魏,則吳自服。操身雖斃,子丕篡盜,當因眾心,早圖關中,居河、渭上流以討凶逆,關東義士必裹糧策馬以迎王師。不應置魏,先與吳戰;兵勢一交,不得卒解。」先主不聽,遂東征,留雲督江州。先主失利於秭歸,雲進兵至永安,吳軍已退。
  19. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 〈雲別傳曰:亮曰:「街亭軍退,兵將不復相錄,箕穀軍退,兵將初不相失,何故?」芝答曰:「雲身自斷後,軍資什物,略無所棄,兵將無緣相失。」
  20. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 時先主亦依讬瓚,每接納雲,雲得深自結讬。雲以兄喪,辭瓚暫歸,先主知其不反,捉手而別,雲辭曰:「終不背德也。」
  21. ^    (中国語) 『資治通鑑』巻71太和二年胡注, ウィキソースより閲覧, "據《晉書‧職官志》:鎭軍將軍在四征、四鎭將軍之上。今趙雲自鎭東將軍貶鎭軍將軍,蓋蜀漢之制,以鎭東爲專鎭方面,而以鎭軍爲散號,故爲貶也。" 
  22. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "《宋書· 百官志》鎭軍將軍比四鎭,在四鎭之次。《晉志》 之鎭軍將軍為鎭軍大將軍,故在四征、四鎭之上也。"
  23. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」
  24. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 大將軍姜維等議,以為雲昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。
  25. ^ 三國志/卷36 趙雲伝(裴松之注・雲別伝): 謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。
  26. ^    (中国語) 後出師表, ウィキソースより閲覧。 「自臣到漢中,中間朞年耳,然喪趙雲、陽羣、馬玉、閻芝、丁立、白壽、劉郃、鄧銅等及曲長屯將七十餘人,…」
  27. ^ 楊子龍「浅談魏晋南北朝時期雑伝之別伝」『四川教育学院学報』第3号、2009年、57-58頁。 p. 58.
  28. ^ 朱静「魏晋別伝繁興原因探析」『塩城師範学院学報(文社会科学版)』第2号、2006年、62-66頁。 p. 65.
  29. ^ 田延峰「漢魏六朝時期人物別伝綜論」『宝鶏匯理学院学報(哲学社会科学版)』第2号、1995年、76-80, 20。 pp. 77-78, 80.
  30. ^ 趙華「略論別伝与史伝之異同」『黒河学刊』第6号、2003年、85-86頁。 p. 58.
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  32. ^ 王煥然「試論漢末的名土別伝」『沈陽師範大学学報(社会科学版)』第2号、2004年、70-74頁。 p. 74.
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  37. ^ 矢野 1967, pp. 30–31.
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  41. ^ 矢野主税「別伝の研究」『社會科學論叢』第16号、1967年、17-45頁。 p. 31.
  42. ^ 矢野 1967, p. 45.
  43. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "本傳先主為平原相時,[]雲已隨從主騎,《別傳》謂 '就袁紹,雲見於鄴' 則在建安五年後,此違反不可信也。";"諸葛賞罰之肅,雲猶貶號,其下安得濫賜?又足以明其不然。別傳類皆子孫溢美之言,故承祚不取。"
  44. ^ 三國志/卷38 秦宓伝 先主既稱尊號,將東征吳,宓陳天時必無其利,坐下獄幽閉,然後貸出。
  45. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之駁分賜,議甚忠正,然經國之務,有諸葛公在,必得其當,未應反待武臣駮議,殆家傳掠美耳。其諫伐吳,則又諸葛公所不能得之,其主追思孝直,恐散號列將非所及也。《別傳》大抵依仿諸葛子瑜書及孫權稱尊號諸葛公不明絕其僭之義為之。"
  46. ^ 『三国志集解』巻36趙雲伝, "雲之美德皆見《別傳》 ,而本傳略不及之,何哉?"
  47. ^    (中国語) 『清史稿』巻84礼志三, ウィキソースより閲覧, "[康熙]六十一年,[聖祖]諭:「帝王崇祀,代止一二君,或廟饗其臣子而不及其君父,是偏也。凡為天下主,除亡國暨無道被弒,悉當廟祀。有明國事,壞自萬曆、泰昌、天啟三朝,神宗、光宗、憙宗不應崇祀,咎不在愍帝也。」於是廷臣議正殿增祀[...]凡百四十三位。其從祀功臣,增黃帝臣倉頡,商仲虺,周畢公高、呂侯、仲山甫、尹吉甫,漢劉章、魏相、丙吉、耿弇、馬援、趙雲,唐狄仁傑、宋璟、姚崇、李泌、陸贄、裴度,宋呂蒙正、李沆、寇準、王曾、范仲淹、富弼、韓琦、文彥博、司馬光、李綱、趙鼎、文天祥,金呼嚕,元博果密、托克托,明常遇春、李文忠、楊士奇、楊榮、于謙、李賢、劉大夏,凡四十人。是歲,世宗御極,依議行,增置神主,為文鑱之石。" 
  48. ^ 『三国志集解』巻36評, "灌[]摧項羽於垓下,滕[]脫孝惠於彭城,比之定軍、當陽之事。"
  49. ^   季漢輔臣贊 〈贊趙子龍、陳叔至〉 (中国語), 季漢輔臣贊, ウィキソースより閲覧。  - 征南厚重,征西忠克。統時選士,猛將之烈。
  50. ^    (中国語) 『榕村語録』巻22, ウィキソースより閲覧, "趙雲、張嶷不獨有將略,其見事明決,持重老成,實古重臣之選。" 
  51. ^ 嘉靖元年(1522年)序刊『三国志通俗演義』二十四巻「盖因嚇喝主母、以致喪命、亦是不忠也。」
  52. ^ 王長友「嘉靖本《三国志通俗演义》小字注是作者手笔吗?-兼及《三国志通俗演义》的版本和成书时间」(『武汉师范学院学报(哲学社 会科学报)』1983年)
  53. ^ 陳遼「比较:罗本《三国》和毛本《三国》」(『复旦学报(中州学刊)』1993年)
  54. ^ 『三國演義の文學』(『中國の八大小説』・昭和四十年・大阪市立大學中國文學研究室)
  55. ^ 上野隆三「『三国演義』における趙雲像」(PDF)『中國文學報』第38号、1987年、86-114頁。 p. 98.
  56. ^ 上野 1987, pp. 102–104.
  57. ^ 『《中国民間文学集成·四川巻·成都市西城区巻》杜斌講述・鄒萍秀捜集整理:〈趙子龍的洗馬池〉』成都:成都市西城区民間文学集成編委員、1989年1月、121-122頁。 
  58. ^    (中国語) 古今刀剣録, ウィキソースより閲覧。 「蜀主劉備,以章武元年,歲次辛丑,采金牛山鐵,鑄八劍,各長三尺六寸。一備自服,一與太子禪,一與梁王理,一與魯王永,一與諸葛亮,一與關羽,一與張飛,一與趙雲。並是亮書,皆作風角。處所有令,稱元造刀五萬口,皆連環及刃,口列七十二鍊,柄中通之,兼有二字。」
  59. ^ 『馮本林〈戴戒指的来歴〉收錄《荊州三国伝說》於熊永編著』中国文聯出版社、2000年2月、137頁。 
  60. ^ 『《三国演義大辞典》〈荊州人戴戒指的来歴〉沈伯俊·譚良嘯編著』中華書局、1989年、634頁。 
  61. ^ 『《中国民間文学集成・正定県故事巻(第一巻)》蘇平修・王京端主編』石家荘:石家荘市正定県三套集成編委員会、1988年1月、127-129頁。 
  62. ^ 『三国故事傳説集(趙雲是怎麼死的):湖北省咸寧地区郡衆芸術館編』咸寧:湖北省咸寧地区郡衆芸術館、1983年10月、143-144頁。 
  63. ^ 一身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。
  64. ^ 満身是胆”. 四字熟語辞典. 2024年6月7日閲覧。

参考文献・関連書籍

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  • 陳寿撰、裴松之注 『正史 三国志 5 蜀書』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年。- ISBN 4-480-08045-7
  • 「中国の思想」刊行委員会編訳『正史 三国志英傑伝III 貫く 蜀書』徳間書店、1994年。- ISBN 4-19-860086-4
  • 渡邉義浩 著「趙雲 主君の子を守り抜く」、鶴間和幸 編『侠の歴史・東洋編(上)』清水書院、2020年、240-249頁。ISBN 978-4-389-50122-8 
  • 『三國志 英傑完全ランキング』渡邉義浩監修、宝島社、2020年。- ISBN 978-4-299-01092-6
  • 『三国志ビジュアル百科』渡邉義浩監修、株式会社コーエーテクモゲームス 企画協力、講談社、2018年。- ISBN 978-4-06-513580-8
  • 小林瑞恵「関羽・趙雲 崇拝・愛される武将」後藤裕也・小林瑞恵・高橋康浩・中川諭『武将で読む三国志演義読本』勉誠出版、2014年、p. 147-261。- ISBN 978-4-585-29078-0
  • 坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』平凡社新書、2006年。ISBN 4-582-85325-0 
  • 宮川尚志『諸葛孔明 「三国志」とその時代』光風社出版、1988年、ISBN 4-87519-014-X
  • 董毎戡『三国演義試論』上海古典文学出版社、1956年。ISBN 9787200148374 
  • 華陽国志

関連項目

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外部リンク

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