菊間
菊間(きくま[5])は、千葉県市原市の市原地区にある大字。郵便番号290-0007[3]。
菊間 | |
---|---|
大字 | |
地内の村田川 | |
北緯35度32分12.3秒 東経140度8分45.7秒 / 北緯35.536750度 東経140.146028度座標: 北緯35度32分12.3秒 東経140度8分45.7秒 / 北緯35.536750度 東経140.146028度 | |
座標位置:菊間公民館 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 市原市 |
地区 | 市原地区 |
人口情報(2024年4月1日現在[1]) | |
人口 | 4,441 人 |
面積(2022年現在[2]) | |
2.96832 km² | |
人口密度 | 1496.13 人/km² |
郵便番号 | 290-0007[3] |
市外局番 | 0436[4] |
ナンバープレート | 市原 |
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地理
編集市原市北部に所在する。村田川左岸に位置し、菊間台地と呼ばれる台地を含む[6]。北に村田川を挟んで古市場、東で草刈、南東で大厩、南で山木・若宮、西で八幡と隣接する。千葉市との境界に近いが隣接していない。[7]
歴史
編集古代
編集菊間台地上には、前方後円墳3基・前方後方墳1基・円墳13基・方墳4基が確認される菊間古墳群がある[8]。古墳時代の首長層の墓域と見なされ[8]、『先代旧事本紀』には菊麻国造の記載があり、菊間廃寺も菊間国造との関連が推測される[6]。『和名類聚抄』には菊間(くくま)の郷名があり[9]、菊間はその遺称地とされる[10]。
中世
編集天正11年(1583年)12月13日付の里見義頼寺領充行状(田代文書)に、上総国市原荘の一角の「菊間之郷」を正善院に宛行うとの記載がある[11][10]。軍記物『房総治乱記』によれば天正13年(1585年)、佐倉城主千葉邦胤を殺害した桑田万五郎が菊間で討たれた[11][10]。天正18年(1590年)5月の豊臣秀吉禁制には、市原荘のうちに「きくま」の地名が見られる[11][10]。
なお、近世の筆写として伝わる『飯香岡八幡宮由緒本記』は、治承4年(1180年)に源頼朝が寄進した神田のうちに「菊間村」が含まれていると記す[11][10]。
近世
編集近世の菊間村は上総国市原郡に属した[12]。元禄10年(1697年)以後は旗本酒井氏などの相給となった[12]。
近代
編集菊間藩の時代
編集慶応4年(1868年)5月、徳川宗家当主徳川家達は新政府から駿府藩主として認められ、70万石の領主として駿河・遠江に入ることとなった。これにともない、駿河沼津藩5万石水野家に国替えが命じられることとなり、駿河国内の領地2万3700石の代地として上総国市原郡内の土地が水野家に与えられた。水野家は藩庁所在地を菊間村に定め、菊間藩が成立する[12][13]。菊間藩は千光院に仮陣屋を置き[14]、雲境(くものきょう)という小字に藩庁建設を試みたが[15]、廃藩置県によって藩庁建設は中断したとされる[14]。ただし、鐘楼を備えた広壮な知藩事公邸や[注釈 1]、二階建ての「医局」が完成した[14]。
沼津からの藩士の移住は、明治元年(1868年)から同5年(1872年)にかけて数波に分かれて行われた[14]。沼津にあった家屋は解体され、資材として海路で浜本(市原市八幡)へ、そこから村田川をさかのぼって菊間まで輸送された[14]。徳永台地区には武家屋敷や長屋が築かれた[17]。菊間とその周辺(大厩・山木・草刈)には藩士644戸が移住して、人口は数千人に増えたという[14][注釈 2]。増加した人口を当て込み、菊間付近は旅籠や銭湯・すし屋や蕎麦屋も並ぶ賑わいを見せた[14]。しかし、廃藩置県や秩禄処分を受けて商人たちは去り、商業的な発展は頓挫したという[14]。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県にともない菊間藩は廃され菊間県となったが、同年11月に菊間県は木更津県に統合された[15][18]。
近代「菊間村」の成立
編集1874年(明治7年)、千光院に菊間小学校(現在の市原市立菊間小学校)が開校した[12]。この小学校は菊間藩の藩校「明親館」を継承するものであった[19]。
1889年(明治22年)、町村制の施行に伴い、菊間村・古市場村・大厩村・草刈村が合併して、行政村としての菊間村が成立した[20]。従来の菊間村は、新たな菊間村の大字「菊間」となった[20]。菊間村役場は、かつての菊間藩庁医局の建物を使用したが[14][21]、1900年(明治33年)に暴風雨のため倒壊した[21]。
現代
編集1955年(昭和30年)、町村合併に伴い市原町の一部となり[20][22]、1963年(昭和38年)には市原町の市制施行にともない市原市の大字となる[22]。
1966年(昭和41年)には若宮団地が起工し[22]、1971年(昭和46年)には大字菊間の一部が若宮二丁目から七丁目として分離した[22]。
世帯数と人口
編集2024年(平成29年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁字 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
菊間 | 2,229世帯 | 4,441人 |
通学区域
編集市立小学校・市立中学校及び県立高等学校の通学区域は以下の通りである[23]。
町丁字 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
菊間 | 一部 | 市原市立八幡小学校 | 市原市立八幡中学校[注釈 3] |
一部 | 市原市立若宮小学校 | ||
一部 | 市原市立菊間小学校 | 市原市立菊間中学校 | |
一部 | 市原市立辰巳台西小学校 | 市原市立辰巳台中学校 |
施設
編集- 市原市立菊間コミュニティセンター
- 市原スポレクパーク
- 市原市立菊間小学校
- 市原市立菊間中学校
- 市原市立八幡東中学校
- 市原市菊間水再生センター
- 菊間終末処理場
- 大多喜ガス菊間供給所
- 県営菊間団地
- 姫宮公園
交通
編集鉄道駅
編集大字内に駅はないが、最寄り駅は八幡宿駅である。
バス
編集バスの運行は年々縮小し2024年現在では地域内には片方向の1本のみが乗入れている。
- 運行会社は小湊鉄道塩田営業所、最寄りバス停は菊間団地などがあるが、運行する小湊鉄道の人員不足により2023年5月1日から2024年4月7日まで菊間地区に乗り入れるバスは全て運休となっていた。
- 浜05は長らく運休となっていたが、2024年4月8日の人員不足に伴うダイヤ改正で平日の日中に菊間団地行1本のみだが再開された。
- 菊間団地バス停から徒歩15分のところにある古市場大気バス停は、1日を通して1~2時間に1本程度浜野方面へのバスが運行されている。
系統 | 経由 | 行き先 | 参考 |
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八05 | 八幡宿駅東口 | 2023年5月1日より、人員不足のため平日全便運休(休日は元より運行無し)。 | |
浜05 | 浜野 | 長期に渡り運休となっていたが、2024年4月8日より平日に菊間団地行1本のみ再開。 |
道路
編集- 千葉県道126号八幡菊間線
- 館山自動車道 - 出入口はない。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b “世帯数・人口(町丁字別)”. 市原市 (2017年11月7日). 2017年11月8日閲覧。
- ^ “令和4年度市原市統計書データ”. 市原市 (2022年4月1日). 2023年8月16日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月7日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
- ^ “地名・郵便番号案内 | 市原市ホームページ”. 2022年12月7日閲覧。
- ^ a b “菊間”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ Googleマップ - Google(2017年10月20日閲覧)
- ^ a b “菊間古墳群”. 日本歴史地名大系. 2023年7月16日閲覧。
- ^ “菊麻郷”. 日本歴史地名大系. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c d e “菊麻村”. 日本歴史地名大系. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c d “菊間之郷(中世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c d e “菊間村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ “菊間藩”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 竹内克 2001, p. 90.
- ^ a b “菊間藩庁跡”. 日本歴史地名大系. 2023年7月13日閲覧。
- ^ 『上総国町村史 第一編』, 24/83コマ.
- ^ 竹内克 2001, p. 92.
- ^ 川名登. “菊間藩”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2023年7月13日閲覧。
- ^ 竹内克 2001, pp. 92–93.
- ^ a b c “菊間村(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ a b 『千葉県市原郡誌』, p. 857.
- ^ a b c d “菊間(近代)”. 角川日本地名大辞典. 2023年7月16日閲覧。
- ^ “小学校・中学校の所在地及び通学区域一覧”. 市原市 (2017年6月2日). 2017年11月8日閲覧。
- ^ 停留所検索結果 - 小湊鉄道バス(2017年10月20日閲覧)