菊池則忠
日本の江戸時代後期~明治時代後期の武士・神職者。交代寄合(人吉藩支配・無高)旗本米良栄叙長男で、米良氏17代当主(肥後球磨郡米良領主)
菊池 則忠(きくち のりただ)は、幕末の肥後国球磨郡米良領主[2]。小川城主。米良栄叙の嫡男。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政13年11月5日(1830年12月19日)[1] |
死没 | 明治40年(1907年)12月30日[1] |
改名 | 米良則忠(初名)→菊池則忠→忠 |
別名 | 主膳、広次郎(通称) |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 米良氏→菊池氏 |
父母 | 父:米良栄叙 |
兄弟 | 則忠、量平 |
妻 | 正室:於保(相良頼之の娘) |
子 | 武臣、阿多貫一郎、武干、武麿 |
生涯
編集肥後国球磨郡米良小川(現在の宮崎県西米良村小川)[3]に生まれる。嘉永元年(1848年)12月に父が没し、翌年3月、20歳の時に家督を継ぎ17代米良領主となった。米良宗家の代々の仮名である主膳を称す。菊池氏の末裔の意識を持っており、家臣の甲斐大膳・大蔵父子らと尊王攘夷派として活動した。
明治元年(1868年)、菊池姓への復姓を願い出て、翌明治2年(1869年)正月に菊池広次郎忠(すなお)と名乗った。同年、版籍奉還の際に東西米良村、三財村寒川(現西都市)他の領内の山林を全領民に分け与えて村民の基盤を整え、子弟の教育のために弘文館(後の米良小学校)を開設した。西南戦争の後、家督を嫡男の武臣に譲った。晩年は菊池神社宮司を務めた。明治40年(1907年)に77歳で没した。
注釈
編集参考文献
編集- 「菊池則忠公顕彰碑文」(宮崎県西米良村小川)1990年3月
- 「米良氏」工藤敬一『國史大辞典』第十三巻 吉川弘文館、1992年3月
- 「米良・米良山」石川正雄他『宮崎県の地名』平凡社、1997年11月
- 西米良村HP