荒尾之茂
荒尾 之茂[1](あらお これしげ[1][2]、1889年(明治22年)8月31日[3][4] - 1962年(昭和37年)1月22日[5])は、日本の華族(旧鳥取藩国老[6]、男爵[1][6][注 1])。旧姓・池田。
経歴
編集東京府士族・池田武吉の二男[3][6][注 2]。1894年、荒尾成富の養子となり、家督を相続する[3][6][8]。幼より武士的教育を課せられる[4]。1906年、養父成富の勲功により、華族に列し、男爵を授けられる[3][6][8][注 3]。1909年、叙従五位[10]。
その後健康が勝れなかったので、しばらく鳥取県米子市寺町の妙興寺に居を移し、静養する[5]。多年三井合名会社に在勤する[4]。1918年、鳥取県西伯郡米子町小学校基本財産として四分利公債証書額面金200円を寄付する[11]。
1945年3月15日の東京大空襲で邸宅が全焼、京都の仮寓で1962年1月22日に亡くなる[5]。法名は、松柏院殿清修成茂大居士[5]。墓所は、米子市博労町2丁目、黄檗宗の祥光山了春寺[5]。
人物
編集家族
編集- 荒尾家
荒尾家の祖荒尾空善は尾張国知多郡荒尾谷(現・愛知県東海市)に在って織田信長に属し、のち池田信輝に仕え、以後代々家老となる[9]。また池田光仲が鳥取に封ぜられた時に伯耆国米子を預かり成直に至り、1万5千石を領有する[9]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 『現代華族譜要』ア29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ a b 『華族名簿 昭和16年5月31日現在』127頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第4版』あ50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ a b c 『因伯名流伝 第1巻』250 - 251頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e 『伯耆米子城』114 - 115頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第12版 上』ア153頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ a b 『華族名簿 昭和17年6月1日現在』125頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月31日閲覧。
- ^ a b c d 『鳥取県人名鑑 昭和5年版』ア24 - 25頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e 『昭和新修華族家系大成 上』48頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月30日閲覧。
- ^ 『官報 1909年09月11日』官報 第7866号 182頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ 『官報 1918年11月26日』官報 第1894号 487頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月28日閲覧。
- ^ 『財界物故傑物伝 下巻』443頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年8月29日閲覧。
参考文献
編集- 大蔵省印刷局編『官報 1909年09月11日』日本マイクロ写真、1909年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 大蔵省印刷局編『官報 1918年11月26日』日本マイクロ写真、1918年。
- 維新史料編纂会編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年。
- 鳥取新報社編『鳥取県人名鑑 昭和5年版』鳥取新報社、1930年。
- 岡田朋治『因伯名流伝 第1巻』因伯社、1933年。
- 実業之世界社編輯局編『財界物故傑物伝 下巻』実業之世界社、1936年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1939年。
- 『華族名簿 昭和16年5月31日現在』華族会館、1941年。
- 『華族名簿 昭和17年6月1日現在』華族会館、1942年。
- 佐々木謙、佐々木一雄『伯耆米子城』稲葉書房、1971年。
- 霞会館諸家資料調査委員会編『昭和新修華族家系大成 上』霞会館、1982年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 米子荒尾男爵家初代 1906年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |