草深 (印西市)
草深(そうふけ)は、千葉県印西市の大字。郵便番号270-1337[2]。
草深 | |
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千葉県立印旛明誠高等学校 | |
北緯35度47分41.2秒 東経140度9分3.7秒 / 北緯35.794778度 東経140.151028度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 千葉県 |
市町村 | 印西市 |
地区 | 船穂地区 |
標高 | 31 m |
人口 | |
• 合計 | 3,383人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
270-1337[2] |
市外局番 | 0476[3] |
ナンバープレート | 習志野 |
※座標・標高は仲ノ側集会所付近 |
地理
編集北は別所、牧の台、北東は牧の原、西の原、東は原、東の原、南東は造谷、岩戸、南は吉田、松崎台、結縁寺、南西は高花、原山、西は泉野、泉、北西は鹿黒南、大森に隣接している。
歴史
編集江戸時代は惣深新田であり、下総国印旛郡のうち。印西領・印西筋に属す。もと小金牧のうち印西牧の一部、草深野(惣深野)。
「草深志」によれば、草深野の新田開発として1636年(寛永13年)小金領千足村・新左衛門の出願、許可、失敗がある。のち、1670年(寛文10年)鰭ケ崎村元名主・清重郎ほか6名が出願、許可となり江戸町人も請負人に加わったが資金操りの方は順調ではなかった。草深野の一部が近隣村のもと入会野であったため開発反対もあったが周辺16か村に開発地の一部を分与することで解決された。
寛文(1661年~1673年)・延宝(1673年~1681年)期に徐々に新田開発が進み、1676年(延宝4年)の検地により成立。はじめ幕府領、1839年(天保10年)から浜松藩領、1846年(弘化3年)幕府領となるが、のち再び浜松藩領。村高は「元禄郷帳」2,769石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに2,774石余。1676年(延宝4年)の反別下田40町4反余・下畑489町7反余、屋敷5町3反余、家数120・人数558。割渡され持添新田などとして開発された分は、結縁寺・船尾・松崎・吉田・岩戸・造谷・角田・荒野・竜腹寺・滝・小林・宗甫新田・別所・大森・鹿黒・泉新田の16か村に見える。1774年(安永2年)の家数78・人数378(印旛郡誌)。
1873年(明治6年)千葉県に所属。1889年(明治22年)飛地字関ノ台が宗像村、飛地字池ノ台が本郷村の各一部となり、本村は船穂村の大字となる[4]。
年表
編集世帯数と人口
編集2017年(平成29年)10月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字 | 世帯数 | 人口 |
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草深 | 1,182世帯 | 3,383人 |
施設
編集- 千葉県立印旛明誠高等学校
- 原山保育園
- 仲ノ側集会所
- 原青年館
- 柏木台青年館
- 七軒屋集会所
- 妙光院
- 回復院
- 大師堂
- 丸山観音堂
- 慈光山専徳寺僧伽堂
- 稲荷神社
- 三宝大荒神社
- 神明神社
- すなくぼ第2公園
交通
編集路線バス
編集道路
編集脚注
編集- ^ a b “印西市の人口と世帯数”. 印西市 (2017年11月2日). 2017年11月13日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2017年11月13日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年11月13日閲覧。
- ^ a b c d 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 498頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 771頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 12 千葉県』、角川書店、1984年 ISBN 4040011201 837頁
- ^ ちばレインボーバス 船尾車庫エリア路線図、2014-03-30閲覧。
- ^ ちばレインボーバス 神崎線 路線別時刻表、2014-03-30閲覧。