石谷 (岐阜市)
石谷(いしがい)は、岐阜県岐阜市の大字・町丁。町丁部は石谷一丁目から石谷六丁目までが置かれている。郵便番号501-1106[2]。
石谷 | |
---|---|
北緯35度29分7.9秒 東経136度44分14.7秒 / 北緯35.485528度 東経136.737417度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 岐阜県 |
市町村 | 岐阜市 |
地区 | 方県地区 |
標高 | 10 m |
人口 | |
• 合計 | 913人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
501-1106[2] |
市外局番 | 058 (岐阜MA)[3] |
ナンバープレート | 岐阜 |
※座標・標高は石谷公民館付近 |
地理
編集小字
編集小字は以下の通り[4]。
- 寺之町(てらのまえ)
- 六反田(ろくたんだ)
- 門田(かどた)
- 壱町田(いっちょうだ)
- 惣作(そうさく)
- 流田(ながれだ)
- 池田(いけだ)
- 山下(やました)
- 二田子(ふたご)
- 北山(きたやま)
- 南山(みなみやま)
歴史
編集室町時代には、13代将軍足利義輝に仕えた奉公衆の石谷氏の本領があった[5]。
江戸期は石谷村であり、方県郡のうち。「慶長郷牒」はとい塚村とある。はじめ加納藩領、のち幕府領、宝永2年からは高富藩領。「慶長郷牒」「元和領知改帳」「正保郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに村高828石余。神社は八幡神社・諏訪神社・神明神社・御鍬神社、寺院は正源寺・福満寺・長楽寺・東林寺。明治4年岐阜県に所属。「町村略誌」によると戸数88・人口429・馬35、十石積鵜飼形船1艘、物産は穀類のほか菜種・薪など。伊自良川には舟運が盛んで、当村に港があったが明治29年の洪水により川が荒れ、その面影は消えた。同30年稲葉郡方県村の大字となる。
記録不明であるが、鉱山経営の跡が残る。明治後期伊自良川の破堤による被害に耐えかねて北海道への移住が行われた。昭和20年第2次大戦激化とともに、飛行機格納壕作りが始まり、1戸1人が奉仕員を出す。飛行機誘導道路とするために二田子から黒野に通じる県道の拡幅が行われた。昭和40年代後半、団地が造成され、工場が進出するようになる[6][7]。
年表
編集小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
地域 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
石谷 | 岐阜市立方県小学校[8] | 岐阜市立岐北中学校[8] |
一丁目 | ||
二丁目 | ||
三丁目 | ||
四丁目 | ||
五丁目 | ||
六丁目 |
世帯数と人口
編集2018年(平成30年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字・丁目 | 世帯数 | 人口 |
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石谷 | 342世帯 | 859人 |
石谷1丁目 | - | 18人 |
石谷2丁目 | - | 25人 |
石谷3丁目 | - | 11人 |
計 | 361世帯 | 913人 |
施設
編集- 石谷公民館
- 大石公民館
- 光団地公民館
- 岐阜方県郵便局
- 石谷公園
- 八幡公園
- 八幡神社
- 福満寺
- 長楽禅寺
- 正源寺
- 東林寺
交通
編集道路
編集バス
編集- 岐阜市コミュニティバス(方県・網代地区コミュニティバス)[9]
脚注
編集- ^ a b “人口統計 - 地区別・町丁別世帯数及び人口”. 岐阜市 (2018年4月1日). 2018年12月2日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年12月2日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年12月2日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』、角川書店、1980年 ISBN 4040012100 1285頁
- ^ 林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含む一般財団法人 林原美術館、岡山県立博物館、2014年06月23日
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』、角川書店、1980年 ISBN 4040012100 93頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』、角川書店、1980年 ISBN 4040012100 94頁
- ^ a b 岐阜市立小・中学校及び高等学校通学区域に関する規則、2013-11-13閲覧。
- ^ 岐阜市コミュニティバス運行について、2013-11-13閲覧。
- ^ 方県・網代バス ~方県・網代地区コミュニティバス~ (方県ルート)、2013-11-13閲覧。
- ^ 方県・網代バス ~方県・網代地区コミュニティバス~ (網代ルート)、2013-11-13閲覧。