田所 寧親(たどころ やすちか、1812年文化9年) - 1873年明治6年)8月11日)は、江戸時代土佐藩武士、砲術家、土佐藩砲術指南役。通称は左右次(そうじ)、惣次、作太郎。

来歴

編集

1812年文化9年)、土佐藩士で、稲富流砲術家の田所家の子息として、土佐郡潮江村に生まれる。

1842年(天保13年)6月、幕府が、高島流砲術の伝習を解禁した為、翌1843年(天保14年)、長崎高島秋帆(四郎大夫)を訪ね、秋帆の門弟で周防岩国森脇隼人有坂純蔵らに、オランダ式の高島流砲術を学び帰藩する。その後、土佐藩の海防の御用を勤め、幡多郡下田港や、高岡郡須崎港に砲台を築造する。

1854年嘉永7年)8月、藩命を受けて池田歓蔵(土佐藩砲奉行)、河田小龍(図引役)、伊藤丈助(鉄砲鍛冶)らと薩摩へ赴き、大砲鋳立所(反射炉)、桜島工作場(西洋式軍艦造船所)などを視察し、同11月5日帰藩する。1855年(嘉永2年)江戸へ出て高島秋帆を訪ね、江川英龍(韮山代官)の基で、高輪十字砲台の築造に従事し、佐久間象山勝海舟と誼を交わす。

一方で、土佐藩仕置役(参政)の吉田東洋と意見があわず、1859年(同6年)追放に処せられる。1861年文久元年)9月に武市半平太土佐勤王党に参加。1862年(文久2年)3月、土佐国安芸郡の田野学館で寧親は、中岡慎太郎島村寿之肋平安佐輔らと時勢を論じている。

1873年明治6年)8月11日死去。享年62。

1928年(昭和3年)11月10日、正五位を追贈された[1]

家族

編集

寧親の門下生

編集
  • 本山只一郎茂任
  • 樋口真吉 武
  • 清岡治之助正道(野根山殉難烈士)
  • 近藤次郎太郎為美(野根山殉難烈士)
  • 横山英吉正利(野根山殉難烈士)
  • 豊永斧馬方鋭(野根山殉難烈士)
  • 須賀恒次義氏(野根山殉難烈士)

関連項目

編集

脚注

編集
  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.56

参考文献

編集
  • 『三百藩家臣人名事典(巻6)』家臣人名事典編纂委員会 編、新人物往来社、1989年
  • 『明治維新人名辞典』日本歴史学会 編、吉川弘文館、1981年