田尻稲次郎
田尻 稲次郎(たじり いなじろう、嘉永3年6月29日(1850年8月6日) - 1923年(大正12年)8月15日)は、日本の経済学者・政治家・官僚。元・東京市長。専修学校(専修大学の前身)の創始者の一人である。子爵。
田尻稲次郎 | |
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生年月日 | 1850年8月6日 |
出生地 | 日本・山城国京都 |
没年月日 | 1923年8月15日(73歳没) |
死没地 | 大日本帝国・東京府 |
出身校 | イェール大学 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1891年12月22日 - 1901年6月5日 |
在任期間 | 1918年2月27日 - 1923年8月15日 |
在任期間 | 1901年6月5日 - 1918年2月25日 |
元首 | 明治天皇 |
生涯
編集1850年(嘉永3年)薩摩藩士の3男として薩摩藩の京都上屋敷で生まれた。16歳で薩摩藩の開成所にて洋学を学び、長崎に遊学した後、上京。1869年(明治2年)に慶應義塾の門に入り、その後に開成学校(大学南校、のちに南校)で英学を、海軍兵学寮で兵学を学んだ。
その後、大学南校に戻るが、刑部省から留学を命ぜられ、1871年(明治4年)から1879年(明治12年)まで足掛け9年間アメリカに留学した。ハートフォード高校を経て1874年(明治7年)にイェール大学文科に入学し[1]、イェール大学大学院に進学、経済学、財政学を学び修了。1879年(明治12年)夏に帰国し東京大学で経済学を講じ、のちに大蔵省での部下となる阪谷芳郎・添田寿一らを教える。1880年(明治13年)に専修学校を創立。1884年(明治17年)に大蔵省に入省し、国債局長に就任(その傍らで、法科大学教授を兼任)。1888年(明治21年)に日本で最初の法学博士の学位を得る。
1891年(明治24年)に大蔵省銀行局長、主税局長、貴族院議員となり、1892年(明治25年)に大蔵次官になるもいったん退く。その後、1898年(明治31年)に大蔵次官に返り咲き、大蔵総務長官、会計検査院院長(1901年(明治34年) - 1918年(大正7年))などの要職を歴任。大蔵省時代は、特に日露戦争時での戦費調達、債務処理に功績を挙げた。1912年(明治45年)の東京市会議員選挙に小石川区から立候補したが、鳩山一郎に敗れて落選した(鳩山824票に対し、田尻1票)[2]。
退官後、東京市長を務める等政治の分野でも活躍した。蓮沼門三によって修養団が結成されると、初代団長に推されて就任している。
人物、その他
編集同時代の冒険小説家・押川春浪が「硬骨学者」で「奇行に富んで居られる」と評したほど奇行で知られた人物であり、特に自動車嫌いは徹底していて、宮中に参内するとき以外は人力車さえ使わなかったという[3]。質素を旨とし衣服にかまわぬ姿を、友人たちは「きたなり」(それにちなんで、田尻の号は北雷)と呼んだ逸話がある。また、読んでいない本が積み上がっている状態を指す「
東京市長時代に流行した「東京節」(パイノパイノパイ)の3番に「タジれた市長を仰ぐこと」「市長のいうことよくきいて豆粕食うこと痩せること」との一節があり、3番、4番のサビの部分が「シチョウサン(市長さん)タラケチンボデ パイノパイノパイ ヨウフク(洋服)モツメエリ(詰襟)デ フルイ(古い)フルイフルイ」となっている。「タジれた」は田尻と掛けられている。
親族
編集- 父・田尻次兵衞 - 鹿児島藩士[6]。薩摩藩京都留守居役。前妻の甥に野村綱。
- 長兄・田尻惣一 - 鹿児島藩士。長男の田尻逆は川崎造船所監査役。その長女・イクは男爵松村淳蔵の跡継ぎ松村政俊に嫁いだ。[7]
- 次兄・八代規(1848年生、幼名・幸次郎) - 鹿児島藩士。重野安繹門下の孔孟派の漢学者[8]。京都府教務課長。京都府師範学校校長(1886-1889)。当時の文部大臣森有礼の友人で、校長に就任すると学内の洋装化、欧風化を推進した[9]。前妻のミツは1879年に第三子懐妊中に没し、墓のある大黒寺 (京都市伏見区)の幽霊子育飴伝説になっている[10][11]。後妻は京都寺田屋の娘カノ(1861年生)[12][13]。前妻ミツとの長男・八代則彦(1872-1956)は住友銀行專務取締役(のち会長)、大阪手形交換所委員長[12][14]。規の娘ミサの孫に御木本美隆の妻となった澄子がいる。
- 妻 ヨシ(1864年生) - 東京、士族三枝守富長女。大隈重信の妻・大隈綾子は父の妹。ヨシの義弟(妹の夫)に真木平一郎、大隈信常[15]。
- 長男・鉄太郞(1885年生) - 法学士、日本勧業銀行員[6]
- 二女・アイ - 松岡静雄の妻[16]
- 三女・トミ(1887年生) - 星野章(川崎第百銀行頭取)妻[16]
- 三男・秋鄕(1892年生) - 男爵松村政俊(松村淳蔵の次代)の婿養子となり松村政頴と改名。海軍兵学校卒。[17]
- 四男・穰(1894年生) - 海軍大尉[16]
- 五女・豊(1900年生) - 大島浩の妻[16]
栄典
編集- 1884年(明治17年)6月30日 - 正六位[18]
- 1891年(明治24年)12月10日 - 正五位[19]
- 1892年(明治25年)9月26日 - 従四位[20]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 正四位[21]
- 1898年(明治31年)9月20日 - 従三位[22]
- 勲章等
主な著書
編集- 財政と金融
- 欧州戦局の将来
- 財界時雨
- 財界訓蒙
- 経済学
- 経済大意
- 公債論
- 経済学応用新論
- 簡易生活
- 銀行論
- 経済史眼
- 新国富論
- 地下水利用論
- 米穀経済
- 日本財政経済論
- 日本の現在及将来
- 二十年来世界経済之景況
脚注
編集- ^ 容應萸、「19世紀後半のニューヘイブンにおける日米中異文化接触」 『アジア研究』 2016年(平成28年) 62巻 2号 p.37 - 60, doi:10.11479/asianstudies.62.2_37
- ^ 制限選挙期における東京市会議員総選挙の結果について(櫻井良樹)
- ^ 横田順彌 1998, p. 266.
- ^ 米川明彦 1989, p. 133.
- ^ 『住友財閥』日本経済新聞社, 1982, p276
- ^ a b 田尻稲次郎『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 田尻逆『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ 『日本婦人洋装史』中山千代、吉川弘文館, 1987年、p276
- ^ 清水久美子「新島八重と洋装 : ドレスの再現製作をめぐって」『同志社女子大学生活科学』第47回生活科学会大会講演(2013年6月26日)、京都、2013年、80-87頁、doi:10.15020/00000536、ISSN 1345-1391、NAID 120005643120。
- ^ 大黒寺 幽霊飴伝説京、近江歳時記
- ^ 第46回研究発表会(12.12.20)NPO法人京都観光文化を考える会・都草
- ^ a b 八代則彦『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ お登勢幕末ガイド
- ^ 八代 則彦(読み)ヤツシロ ノリヒココトバンク
- ^ 三枝守富『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
- ^ a b c d 田尻鉄太郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p618
- ^ 官報 & 第301号 1884年(明治17年)7月1日。
- ^ 官報 & 第2536号 1891年(明治24年)12月11日。
- ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」 1892年9月27日。
- ^ 官報 & 第4302号 1897年(明治30年)11月1日。
- ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」 1898年(明治31年)9月21日。
- ^ 官報 & 第3152号 1893年(明治26年)12月29日。
- ^ 官報 & 第3704号 1895年(明治28年)11月1日。
- ^ 官報 & 第7273号 1907年(明治40年)9月25日。
- ^ 官報 & 第1310号 1916年(大正4年)12月13日。
参考文献
編集- 花房吉太郎, 山本源太 編『日本博士全伝』,法学博士 田尻稲次郎君,博文館,1892. 国立国会図書館デジタルコレクション
- 横田順彌『明治おもしろ博覧会』西日本新聞社、1998年3月。ISBN 4816704604。
- 米川明彦『新語と流行語』南雲堂、1989年12月。ISBN 4523261547。
- 「叙任及辞令」『官報』第301号、1884年7月1日、NDLJP:2943505。
- 「叙任及辞令」『官報』第2536号、1891年12月11日、NDLJP:2945799。
- 「叙任及辞令」『官報』第3152号、1893年12月29日、NDLJP:2946416。
- 「叙任及辞令」『官報』第3704号、1895年11月1日、NDLJP:2946979。
- 「叙任及辞令」『官報』第4302号、1897年11月1日、NDLJP:2947589。
- 「授爵・叙任及辞令」『官報』第7273号、1907年9月25日、NDLJP:2950619。
- 「付録:辞令」『官報』第1310号、1916年12月13日、NDLJP:2953423。
関連項目
編集- 相馬永胤 - イェール大学時代にできた友人の一人。
外部リンク
編集- 4人の創立者|専修大学
- 北口由望「明治初期のイェール大学日本人留学生 : 田尻稲次郎が学んだカリキュラムを中心に」『専修大学史紀要』第6号、専修大学大学史資料課、2014年3月、1-17頁、doi:10.34360/00002835、ISSN 1883-9223、NAID 120006792873。
公職 | ||
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先代 内海忠勝 |
会計検査院長 第6代:1901年 - 1918年 |
次代 中隈敬蔵 |
学職 | ||
先代 渡辺洪基 |
国家学会評議員長 1901年 - 1906年 |
次代 穂積陳重 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
修養団団長 初代:1917年 - 1923年 |
次代 平沼騏一郎 |
先代 高木兼寛 |
東京市教育会会長 1920年 - 1922年 |
次代 後藤新平 |
先代 菊池大麓 |
小石川区教育会会長 1918年 - 1921年 |
次代 嘉納治五郎 |
日本の爵位 | ||
先代 陞爵 |
子爵 田尻(稲次郎)家初代 1907年 - 1923年 |
次代 田尻鉄太郎 |
先代 叙爵 |
男爵 田尻(稲次郎)家初代 1895年 - 1907年 |
次代 陞爵 |