牧野忠列
日本の江戸時代中期~後期の武士
牧野 忠列(まきの ただつら、元禄8年(1695年) - 宝暦4年7月20日(1754年9月6日))は、旗本第4代三根山領主。第3代牧野忠貴の婿養子。秋月種封の子。母は織田長頼の娘。幼名、岩松。通称、兵庫。官位は従五位下、伊勢守、伊予守、播磨守。室は牧野忠貴の娘。子女に浅野長純継室、牧野忠知、京極高常(高家京極高本養子)、津田正芳(津田正峻養子)、長谷川勝安(長谷川勝富養子)。
寛永3年(1626年)11月23日、養父の没後家督を継ぐ。寛永4年(1627年)に西城小姓となり、寛永6年(1629年)に本城小姓となる。正徳元年(1711年)、従五位下、伊勢守に叙任される。享保元年(1716年)、将軍徳川家継が夭折するとその任を終え、享保3年(1718年)中奥小姓となり、享保8年(1723年)小姓組番頭となる。翌年、世継となった徳川家重に附属し、二の丸に仕える。享保10年(1725年)西書院番頭となり、家重の側に仕え、享保19年(1734年)職を辞す。延享3年(1746年)に致仕し、家督は子の忠知が継いだ。致仕後、成庶と号し、宝暦4年(1754年)に没する。墓所は一山寺。