牧野忠知
日本の江戸時代中期~後期の武士
牧野 忠知(まきの ただとも、享保10年(1725年) - 寛政12年12月23日(1801年2月6日))は、旗本寄合第5代三根山領主。第4代牧野忠列の嫡男で、母は第3代牧野忠貴の娘。通称は半右衛門。官位は従五位下、讃岐守、伊予守。室は大久保忠宜の娘、継室は越後長岡藩藩主の牧野忠寛の養女。子女に牧野忠義、娘(牧野忠精養女、井上正意室のちに池田清弥室)。姉に浅野長純室、弟に京極高常(京極高本養子)、津田正芳(津田正峻養子)、長谷川勝安(長谷川勝富養子)。
宝暦元年(1751年)定火消となり、布衣を許される。宝暦10年(1760年)百人組頭となる。明和2年(1765年)西の丸小姓組四番組番頭となり、従五位下、讃岐守に叙任される。2年後には西の丸書院番2番組番頭に転属し、安永5年(1776年)大番頭となる。天明元年(1781年)に職を辞し、天明5年(1785年)忠義に家督を譲った。致仕ののち少山と号した。
大名になることを切望していたといわれる。