濱島 等庭(はましま ともなら)は江戸時代地下官人

 
濱島等庭
時代 江戸時代
生誕 延享4年(1745年)7月20日
死没 文政4年(1821年)6月15日
官位 正四位下・志摩守民部権少輔
幕府 江戸幕府
氏族 濱島氏
父母 濱島清定
養子:清章等清子)
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概要

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宝暦4年(1754年)5月1日に8歳で従六位下奉膳に叙任している。濱島氏有職故実に通じる家であり、等庭も御厨子所預・高橋宗直藤貞幹を師として故実家として成長した。貞幹の弟子の中では中心的なポジションにあり、朝廷儀式の再興に尽力したことで江戸にも名が知られるようになったという。天明2年(1782年)版の『平安人物志』にも等庭と養子の清章が記されている。等庭に教えを受けた人物として、公家の中には広橋伊光広橋胤定甘露寺国長三条実起徳大寺実堅今出川公久竹屋光棣櫛笥隆起八条隆祐などが、地下官人の中には谷口胤禄尾崎積興山田以文小林元次などがおり、特に広橋伊光との関係が深かった[1]

文化3年(1806年)12月19日には、内膳司としての業務や故実家として朝廷儀礼を復興したことを評価されて民部権少輔に任じられた。また、同様の理由で文政2年(1821年)12月18日に正四位下に叙された[2]

脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ 西村慎太郎「近世後期地下官人の有職知-内膳司濱島等庭をめぐって-[1]
  2. ^ 三上景文『地下家伝[2]』第14-20 (日本古典全集刊行会、1938年)