尾崎積興
尾崎 積興(おざき つむおき)は、江戸時代後期の公家・武士。官位は従三位・逢殿頭。桂宮の諸大夫を務め、大伴氏出身の人物として伴保平以来875年ぶりに公卿となった。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 延享4年(1747年)11月23日 |
死没 | 文政10年(1827年)5月16日 |
改名 | 継忠→積興 |
戒名 | 天涼院從三位淸月樹観居士 |
墓所 | 龍源寺(京都市右京区鳴滝音戸山町11-59) |
官位 | 従三位・逢殿頭 |
氏族 | 大伴氏流尾崎氏 |
父母 | 尾崎正殖 |
子 | 尾崎春房 |
概要
編集宝暦11年(1761年)3月25日に侍として従六位下・縫殿大允に叙任されたが、翌年5月16日に位官を返上し改めて諸大夫として正六位下・左衛門少尉に叙任された。また同年11月5日には大和守に任じられた。明和5年(1768年)7月25日には名を継忠から積興へと改めた。翌年には弘仁4年(823年)に淳和天皇の諱(大伴親王)を避けて伴氏へと改めていた氏の名を大伴氏へと戻した。その後も玄蕃頭や縫殿頭に任じられ、位階も昇進し、文政8年(1825年)には大伴氏の人間として875年ぶり(天暦4年(950年)10月15日に従三位・伴保平が致仕して以来)に公卿へと昇った。同10年(1827年)5月16日に死去し、龍源寺に葬られた[1]。