深尾重教
(深尾重敬から転送)
深尾 重教(ふかお しげのり)は、江戸時代後期の土佐藩家老。深尾家当主・佐川領主9代。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化元年11月21日(1804年12月22日) |
死没 | 嘉永6年10月3日(1853年11月3日) |
改名 | 幸弥(幼名)→重行→重教 |
別名 | 因幡、相模(通称) |
主君 | 山内豊資→豊熈 |
藩 | 土佐藩 |
氏族 | 深尾家 |
父母 | 父:深尾繁寛、母:西氏娘 |
兄弟 | 重世、重教、重愷 |
妻 |
正室:四辻公績娘 側室:足達氏娘 |
子 |
重哀、重愛(三男) 養子:重先(深尾重愷子) |
略歴
編集文化元年(1804年)11月21日、土佐藩家老深尾繁寛の三男として誕生した。
文化9年(1812年)3月、兄で深尾家当主の重世が早世する。4月に家督を相続し、9代佐川領主となる。文政元年(1818年)5月、元服して名乗りを因幡と改める。後に相模と改名する。天保元年(1830年)、郷校名教館の校舎を、長門国・明倫館を模して領内菜園畑に改築する。天保14年(1843年)、13代藩主・山内豊熈の家督相続御礼言上の際に、共に江戸城に登城して12代将軍・徳川家慶に拝謁する。江戸で旗本の洋式砲術家下曽根信敦に入門し、砲術を学ぶ。また、家臣の那須橘造を長崎に派遣して高島秋帆に砲術を学ばせ、家臣の恩田忠三郎らと図って海防のために洋式の大砲を建造した。
嘉永6年(1853年)11月3日死去、享年50。嫡男の重愛が幼かったため、弟・重愷の子の重先が養子となって家督相続した。
出典
編集- 『佐川町誌』
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