淡海乃海 水面が揺れる時

淡海乃海 水面が揺れる時』(あふみのうみ みなもがゆれるとき)は、イスラーフィールによる日本歴史改変SF。 SFジャンルの歴史改変SFの一つで、自身が転生前に過ごした世界の過去に転生し、歴史や科学の知識を元に歴史を改変していく物語。

  • 2016年03月21日、小説家になろうにて投稿を開始。
  • 2017年11月10日、TOブックスから『淡海乃海 水面が揺れる時~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~』というタイトルで書籍化。[1]
  • 2018年12月10日、TOブックスからコミカライズ連載開始。[2]
  • 2020年03月25日、初の舞台『淡海乃海ー声無き者の歌をこそ聴けー』が上演。[3]
淡海乃海 水面が揺れる時
ジャンル 歴史改変SF
なろう系
小説:淡海乃海 水面が揺れる時~三英傑に嫌われた不運な男、朽木基綱の逆襲~
著者 イスラーフィール
イラスト 碧風羽
出版社 TOブックス
掲載サイト 小説家になろう
刊行期間 2016年03月21日 -
巻数 既刊17巻、外伝2巻(2025年1月現在)
話数 254話(2024年6月現在)
漫画
原作・原案など イスラーフィール(原作)
碧風羽(キャラクター原案)
作画 もとむらえり
出版社 TOブックス
掲載サイト comicコロナ→コロナEX
レーベル コロナ・コミックス
発表期間 2018年12月10日 -
巻数 既刊11巻(2025年1月現在)
小説:異伝 淡海乃海~羽林、乱世を翔る~
著者 イスラーフィール
出版社 TOブックス
掲載サイト 小説家になろう
刊行期間 2020年7月10日 -
巻数 既刊5巻(2024年9月現在)
話数 91話(2025年1月現在)
漫画:異伝 淡海乃海~羽林、乱世を翔る~
原作・原案など イスラーフィール(原作)
碧風羽(キャラクター原案)
作画 藤科遥市
出版社 TOブックス
掲載サイト comicコロナ→コロナEX
レーベル コロナ・コミックス
発表期間 2020年8月19日 -
巻数 既刊4巻(2024年12月現在)
テンプレート - ノート
プロジェクト 漫画
ポータル 文学漫画

更新状況は2019年を境に更新が停滞しており、2019年5回、2020年1回、2024年1回となっている。

概要

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戦国時代の国人の跡取り息子として誕生した転生者が歴史や現代の知識を使いつつ、戦国時代を平定する物語。原作は短い節毎に語り手が変わる一人称小説となっている。そのため、転生者である主人公の語りは現代人として砕けた口調で描かれるのに対して、他の登場人物の語りは戦国時代的な言い回しで区別されている。

周囲から竹若丸と呼ばれる自分が後の朽木元綱(作中の元服後は綱)だと判り、当初は史実より上手く立ち回って江戸時代に十万石ぐらいの大名として存続することを目標とした。ただ、朽木元綱について知っていたのは織田信長越前からの撤退戦(朽木越え)関ケ原での寝返りで名前を見た程度で、それ以外は全く知らなかった(朽木”くき”の読みを”くき”だと思っていたレベル)。二歳にして父を喪い、ただ生き延びるためだけに勝ち続けた結果、自身が天下統一の道を歩むことになる。

淡海乃海

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作品タイトルとなっている淡海乃海は字のごとく「淡水の海=大きな湖」のことで、現在の琵琶湖の古称。琵琶湖#呼称も参照

淡海または淡海乃海は古事記日本書紀に記載があり、読みは古事記に「阿布美能宇美」とあることから「あふみ」「あふみのうみ」とされる。

琵琶湖は主人公が転生した戦国期は一般に「あふみ」と呼称されるが、公家出身の母は万葉集の「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば 情もしのに古思ほゆ」から「あふみのうみ」と呼んでいる。

ちなみに、今の滋賀県に位置する近江国は「近い淡海のある国」を意味する近淡海国から、それと対比する「遠い淡海」は浜名湖を指し、今の静岡県西部に位置する遠江国は「遠い淡海のある国」を意味する遠淡海国からとなる。

羽林、乱世を翔る〜異伝 淡海乃海〜

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将軍足利義藤(後の義輝)の介入により、竹若丸が朽木家を継げなかったことで分岐する物語。

叔父が朽木家当主となり、母の実家である公家羽林家飛鳥井家の養子(飛鳥井基綱)となった主人公は、公卿として頭角を現していく。

本編とは別に単行本とコミカライズが刊行されている。

あらすじ

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竹若丸

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天文十九年(1550年)十月、敗戦によるの戦死という危機的状況で二歳にして近江国高島郡の一角である朽木谷8千石を支配する朽木家当主となった主人公は、その逆境を祖父の後見と将軍足利義藤の来訪[注釈 1]という幸運で切抜けて以降、前世知識による「富国強兵」「殖産興業」政策を進める。

天文二十二年(1553年)八月に将軍一行が三好家との政争に敗れて朽木に避難、その年の暮れに三好家から圧力を受け、翌年一月に三好の重鎮三好孫四郎(長逸)と対面[注釈 2]する。

永禄元年(1558年)、御大典の儀を期に将軍義輝(義藤より改名)が京に帰還すると、翌年早々に高島郡の領袖(高島家)との抗争が勃発する。二月、数的劣勢な中で当時の最新兵器である鉄砲の集中運用と地理的な特性を活用して撃退、策略を併用して近江高島郡の過半(約5万石)をその手中に治める。

高島越中守を嗾けていた近江の守護大名六角左京大夫は朽木を自陣営に取り込む方針に転換、主人公は六角家と浅井家の争いに巻き込まれる。永禄三年(1560年)六角方で野良田の戦いに参陣、史実における六角の敗北を覆して浅井新九郎(賢政)を討ち取る殊勲[注釈 3]を挙る。その後は高島郡から浅井方を駆逐して伊香郡に侵攻、琵琶湖北端の塩津浜城[注釈 4]に居を移した。

弥五郎

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永禄四年(1561年)三月、左京大夫の養女[注釈 5]との婚儀に際して、元服して弥五郎基綱と改める。

同年六月、木之本の戦いに勝利して浅井家を滅ぼす。これにより六角との関係は安定[注釈 6]したかに思えたが、「知勇兼備」と評判の高い主人公を妬んだ六角家嫡男右衛門督義治)との確執が表面化する。

同年九月、信濃国で武田・上杉による第四次川中島の合戦が勃発。史実と異なり、上杉の大勝[注釈 7]となった。

永禄五年(1562年)四月、右衛門督主導で六角家が美濃不破郡に侵攻、美濃一色家との抗争が長期化すると六角家中の不満が高まり、家督争いも絡んで右衛門督と周囲の不和が激化していった。同年暮れに将軍義輝の仲介で美濃の紛争は和睦が成立、六角は美濃から撤退して左京大夫が隠居[注釈 8]するも家中の騒動は治まらず、永禄六年(1563年)四月、大規模なお家騒動[注釈 9]が発生する。

畿内の有力勢力(六角)の不安定化は周囲にも伝播し、まず五月に越前朝倉家で下剋上[注釈 10]が発生。六月には三好家の内藤備前守若狭から守護武田家[注釈 11]を追い払い、六角家の影響下にあった大和北部も三好家の松永弾正忠に浸食されていった。そんな中で八月、三好家の後継者三好筑前守が病没(史実通り)、三好家にも暗雲が漂い始める。

混乱の中で朽木への帰属を希望する坂田郡(旧浅井領)を受け入れた主人公[注釈 12]は、朝倉式部大輔加賀一向一揆勢の対応に手一杯な状況を利用して、同年十月、手薄になった敦賀を急襲して鉢伏山木ノ芽峠に防御線を構築する。これにより日本海での交易拠点を手に入れ、日本海から近江を経由して京都に至る物流ルートを全域掌握する。

その間も六角の内紛は続き、同年暮れに将軍家の御扱いにより右衛門督が廃されて細川晴元次男[注釈 13]が輝頼と改名して六角の家督を継ぐ。しかし、六角家臣団と新当主に付き添ってきた幕臣と間で軋轢が生じ、朽木に帰属した旧浅井領を巡って主人公とも確執が生まれる。

永禄七年(1564年)七月、当時の天下人三好修理大夫が病没(史実通り)。畿内を制する三好の支配体制が揺らぎ、十二月に丹波から三好方の内藤備前守が追い払われ、続いて河内紀伊の守護畠山修理亮が反三好で挙兵するなど、畿内を戦乱が覆っていく。こうした中で永禄八年(1565年)一月に永禄の変が起こり、長年”三好打倒”を画策していた将軍義輝が殺害され、将軍の権威を後ろ盾とした六角家はさらに弱体化していく。

一方越前では、永禄七年八月に朝倉式部大輔が一向一揆勢との戦いで戦死、その後一揆勢は朝倉の残存勢力を掃討しつつ翌年八月に敦賀に攻め寄せる。主人公は木ノ芽峠で一揆勢を撃退すると、九月には一揆勢の攻勢に同調した領内の本願寺勢力(堅田門徒)を制圧、介入してきた比叡山[注釈 14]焼き討ちを決行。湖西(滋賀郡)の宗門勢力を一掃すると西の拠点として坂本の築城に着手する。

永禄九年(1566年)六月、三好撤退後は守護不在の若狭を攻め取る[注釈 15]。その遠征中に三好家が、孫六郎義継派(松永弾正忠、内藤備前守)と豊前守実休派(安宅摂津守三好三人衆)に分裂する。

大膳大夫

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永禄九年(1566年)七月、朝廷からの打診を受けて従四位下大膳大夫に叙任される[注釈 16]

同年八月、主君(輝頼)との間が険悪となっていた舅の平井加賀守一族を朽木家に引き取る。この件で主人公と六角家は一触即発の状況になるが、義継派に擁立された将軍候補足利義秋の仲介で収まる。九月、越前攻めを開始して年内に西半分を制圧する。

永禄十年(1567年)五月に越前全域の制圧を終え、義秋の策による六角・朽木・美濃一色・織田の連合が結成されると実休派打倒の上洛戦が始まる。この連合軍は六角と美濃一色が離反して瓦解するが、主人公は三好との合戦(第一次山科合戦)に勝利、返す刀で六角家を滅ぼす[注釈 17]。更に越前に大挙押し寄せてきた加賀飛騨の一向一揆勢を木ノ芽峠で包囲殲滅(木ノ芽峠の根切り)、その余勢を駆って加賀全域を接収する。

永禄十一年(1568年)五月、越後関東管領上杉輝虎と共同で北陸平定戦を開始。前年の大敗(木ノ芽峠の根切り)で弱体化した北陸の一向一揆を掃討、上杉・椎名軍と合流して能登を制圧する[注釈 18]

一方、畿内の戦乱は徐々に三好実休派の優勢に傾き、河内から紀伊へと転戦しながら抵抗していた畠山修理亮は紀伊平野部の国人衆[注釈 19]が三好方に寝返り、紀伊山地に逼塞を余儀なくされる。だが、その直後に三好実休派が擁立していた将軍候補平島公方足利義栄が堺で病没する(史実通り)。

永禄十二年(1569年)二月、伊勢侵攻を開始する。事前の調略もあって長島一向一揆南伊勢北畠家を残して他を制圧。いったん軍を近江に戻して、別軍を率いて内紛が勃発した能登を制圧。八月には最初の軍を率いて伊勢に再侵攻、油断していた北畠権中納言を下して南伊勢を制圧[注釈 20]、残るは長島一向一揆のみとなる。 同年暮れ、清水山城にて祖父の朽木民部少輔永眠。

永禄十三年(1570年)一月、居城を十年ぶりに塩津浜城から清水山城に戻す。伊勢で発生した一向一揆を六月に鎮圧。九月に再度伊勢に出陣、伊勢各地の公界[注釈 21]を制圧して志摩を掌握[注釈 22]、伊勢から北畠家の影響力を払拭していく。同年暮れ、朝廷からの将軍宣下を受けて実休派が擁立した足利義助が第十四代将軍に就任。

永禄十四年(1571年)四月、満を持して一向宗の拠点伊勢長島を攻略、次いで五月に北畠本家(具教・具成親子など)を粛清して伊勢を完全に掌握する。同時に伊賀国衆が朽木家の傘下[注釈 23]に入る。これにより織田家が美濃を制して今川領(遠江駿河)への侵攻を開始すると、朽木領の東側は同盟国(上杉・織田)で占められ、その目は必然的に西(畿内)を向く事になる。

畿内では大和の義継派と紀伊の畠山が連携して、畿内の大半を制した実休派に抵抗を続けていた。主人公は前将軍義輝の忠臣とされていたため、自然と義昭(前年に改名)支持派と見做されていた。その風評に義昭が便乗して「朽木の上洛戦」への助勢を各家に呼びかけ、朽木の上洛は当人の意思に関係なく既定事実化していく。主人公もこの状況に逆らい難く、遂に永禄十四年(1571年)十月に上洛戦を開始、山科で実休派を撃破(第二次山科合戦)して畿内を制圧する。敗れた実休派は余力を残しつつ本拠地(阿波讃岐淡路)に退き、将軍義助も平島公方家に退去する。

畿内を制した主人公だったが義昭との関係は良好とは言えず、義昭が要求する義助の将軍解任に対して自主的な返上を促す融和策を主張して近江に帰る[注釈 24]。畿内を自派[注釈 25]で固めた義昭だったが、朽木不在を好機と見た実休派が永禄十五年(1572年)三月に急襲[注釈 26]を仕掛けて窮地に陥る。この襲撃は坂本城から駆けつけた朽木軍により阻まれ、守護和田弾正忠が戦死した摂津が朽木領となり、主人公は前の政所執事伊勢伊勢守を復職させ、間接的に幕府の実権を掌握する。七月、南近江に築城していた八幡城(現近江八幡市)が完成、居城とする。

その後は旧知の三好孫四郎(長逸)を通じて実休派との関係改善を進め、永禄十六年(1573年)二月に義昭の将軍即位(前年に義助の将軍位返上)を成し遂げる。同年六月、勅命による禁裏御料丹波国山国庄と小野庄)奪還のため丹波に攻め入り、御料を押領していた宇津右京大夫(義昭派の波多野左衛門大夫(秀治)の同盟者)を追い払い、北部の有力国人川勝大膳亮を傘下に加えた。その際に不穏な動きがあったとして、七月に義昭派(侍所頭人)の丹後一色左京大夫を攻め滅ぼす。

近江少将

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永禄十六年(1573年)八月、御料奪還の功績により正四位下左近衛権少将(四位少将)に叙任(越階)される。

その後、丹波に残存していた反朽木派(波多野氏赤井氏)を滅ぼし[注釈 27]播磨英賀)の一向宗を睨みつつ、浄土真宗本願寺派の総本山石山本願寺への圧力を強める。元亀三年(1575年)一月、長島一向一揆の残党が恭順して石山本願寺を離脱すると、四月に5万の大軍で包囲された石山本願寺は、六月に”朝廷の御扱い”による和睦で放棄され、顕如は西国へと落ちていった。その直後、「関東管領上杉輝虎殿、中風にて倒れる」の急報が届く。輝虎は何とか一命は取り留めるが半身に麻痺が残り、急遽後継者に擁立された甥の上杉喜平次(景勝)の立場を強化するため、主人公の長女・竹姫[注釈 28]との婚儀が決定する。

元亀四年(1576年)、5万を動員して播磨に侵攻して瞬く間に制圧するが、備前宇喜多和泉守(直家)が恭順の姿勢を示すと史実での事績を知る主人公は味方にする事を嫌い、いったん軍を収める。そして宇喜多と対立する備中三村修理進と密かに通じるが修理進は宇喜多に暗殺され、備中は毛利家が制圧する。それに対して主人公は山陽・山陰の両面で謀略戦[注釈 29]を展開、諸将の毛利家への疑心暗鬼を醸成していく。

同年八月、3万を動員した竹姫の輿入れの行列が近江を発し越後に向かう中、将軍義昭が京で挙兵する。親朽木と見られた政所執事の伊勢伊勢守と側近の細川兵部大輔が殺され、同調を拒んだ三好左京大夫(義継)も重傷[注釈 30]を負う。三好の取り込みに失敗した義昭は畿内を去り、毛利勢力圏の鞆の浦に移った。主人公は将軍直轄領(山城国)や挙兵に同調して逃亡した畠山修理亮の紀伊を接収、また挙兵の裏に毛利家の謀略を感じ取り、謀略戦を強化して毛利家・宇喜多家を追い詰めていく。なお松永弾正忠から申し出があり、三好家の跡継ぎとなった三好千熊丸(三歳)に主人公の三女・百合姫[注釈 31]を嫁がせることを決める。

近江中将

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元亀四年(1576年)九月、従三位左近衛中将(三位中将)に叙任[注釈 32]される。

元亀五年(1577年)一月、織田・徳川連合軍により甲斐武田家滅亡[注釈 33]。続いて備前の宇喜多家で大規模な内紛が起きて和泉守が死亡、朽木と毛利が備前で直接対峙する。主人公も負傷する激しい攻防が続く中、八月に山陽と山陰の両面から朽木の大規模攻勢が行われ、但馬因幡・備前を制圧する。

天正二年(1578年)四月に攻勢を再開、美作を制圧して備中に進出した主人公の下に、織田信長が「飲水の病[注釈 34]」との報告が入る。後背の同盟国(織田家)に不安を感じた主人公は、史実に倣い備中高松城水攻めを敢行、毛利家は史実と同じく屈服して朽木家に臣従を誓った。

亜相

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天正二年(1578年)九月下旬、参議(宰相)に叙任、その十日後に中納言(黄門)に叙任される。翌年の天正三年(1579年)二月、正三位に昇進して右近衛大将に就任(一か月ほどで辞任)。同年七月、権大納言(亜相)に叙任される[注釈 35]

天正三年(1579年)八月、相模北条氏小田原城を包囲していた織田信長が戦死(享年46)。陣中で卒中の発作を起こして昏睡状態となり、それを察知した北条軍の奇襲により大敗。また敗走中に嫡男勘九郎信忠も戦死。十二月、旧領回復のため北条勢が伊豆に出兵した隙を徳川に突かれて、小田原落城(北条家・今川家滅亡)

天正四年(1580年)、一月に土佐一条家の重臣土居宗珊が諌死(切腹)し、当主と家臣団の間で激しい内紛が勃発。主人公は四月に出兵して騒動の元となった一条三位少将長宗我部宮内少輔を引退させ、それぞれの嫡男が朽木家の家臣として家を継ぐことを認める。また琉球との交易独占を目論む薩摩島津家を牽制するため、豊前大友宗麟肥後龍造寺山城守の和睦を斡旋する[注釈 36]。島津の策略により朽木領となった安芸で一向一揆が発生するが、無事に鎮圧(降伏した一向門徒を島津領に放逐)。

四国出兵中の四月、織田三介織田三七郎を討ち、織田家の新たな当主となる。同年十月上旬、主人公の嫡男堅綱率いる朽木軍による美濃侵攻が始まり、十一月下旬に美濃制圧。越後では上杉喜平次が関東に出兵している隙を突き、徳川と連携した会津蘆名蒲原郡に侵攻、隠居の上杉謙信が出陣して撃退する(後遺症が残る謙信を補助するため、主人公の長女・竹姫も共に出陣する)。

前内府

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天正五年(1581年)一月、従二位内大臣(内府)に補任される(一か月ほどで辞任)。

禎兆元年(1581年)四月下旬、美濃と伊勢から尾張に侵攻を開始、五月には織田三介信意が岡崎城で降伏する。同年八月、嫡男堅綱に朽木家の家督と旧織田領五か国(尾張三河遠江駿河伊豆)を譲り、堅綱は朽木家当主として従四位下大膳大夫(父基綱の初官位と同じ)に叙任される。

同時期、帝の代替わり(正親町天皇後陽成天皇)を機に薩摩に居る将軍義昭の上洛を計画するが、同年十二月に義昭は顕如に殺害され、顕如も自害する。

禎兆二年(1582年)四月、駿府に移った堅綱は上杉と共同で徳川領甲斐・諏訪に侵攻、徳川軍は岩殿城に籠城する。八月、主人公は正二位に昇進、同時に源氏長者に就任。十月、徳川軍は悪天候に乗じて岩殿城からの撤退に成功する。

禎兆三年(1583年)二月、総勢十万を超える軍勢で九州攻めを開始する。島津に攻められ滅亡寸前の大友家と島津の誘いに乗らなかった竜造寺家は朽木方に付き、五月には秋月氏を始めとした北九州の反朽木勢力を制圧する。そして豊後から日向へと南下を始めた朽木軍に対して島津も主力を日向に集結させ、同時に土佐からの別動隊上陸を警戒する。しかし、別動隊一万が上陸したのは島津の本拠地薩摩であった。これにより島津勢は混乱、さらに救援のため薩摩へ向かう島津本隊の後方に新たな別動隊一万が上陸して動きを封じられる。島津勢は各個撃破され、島津本隊が大隅鹿屋城にて滅亡したのは九月であった。その後、薩摩で九州の仕置きを行っていた主人公に、阿波にて三好阿波守により(将軍位を返上した14代将軍)権大納言足利義助が殺害された報が届く。

九州攻めの間も朽木堅綱による関東への侵攻は進み、二月に箱根の湯坂城[注釈 37]を攻略、その後は徳川家の忍び(元は甲州忍び)や三崎水軍など相模衆(国人衆)が次々に離反、家康は小田原城に逼塞する。その年の暮れに徳川家は降伏し、家康は切腹して果てる。

相国

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禎兆四年(1584年)、従一位太政大臣(相国)に補任される。また堅綱が征夷大将軍に就任する。

四国では三好阿波守が一族三好久介と重臣篠原長房を滅ぼし、三月にはその三好阿波守を異母兄細川掃部頭が滅ぼす。掃部頭は九州を追われた一向門徒を取り込み、五月には讃岐の十河民部大輔を滅ぼし、淡路水軍を率いる安宅甚太郎は朽木に服属する。掃部頭が一向門徒を粛清して朽木に同盟を呼びかけるが、七月朽木による四国出兵が開始され、十月には制圧を終える。

禎兆五年(1585年)五月、琉球王国からの使節団が来訪。ただ天皇の謁見は見送りとなり、朝堂院の再建を開始する。関東では相模・武蔵を抑えた堅綱が下総に侵攻する。

禎兆六年(1586年)一月、地震(史実の天正地震)が発生して主人公も骨折する。領内でも広範囲に被害を出し、九州では「重傷」との虚報が流れ竜造寺家が大友家に攻め入る。五月、琉球からの二回目の使節団が来訪し、再建された大極殿にて天皇の謁見が実現。

同年十一月、総勢十五万を動員し、二回目の九州攻め(龍造寺討伐)を開始。翌年二月、肥前国太田城にて龍造寺隆信死亡。

禎兆八年(1588年)四月、関東・奥州に出兵する。主人公は下野に進んで蘆名を、堅綱が常陸佐竹攻めを開始する。その途中、九州のキリシタンを支援するためイスパニアが軍を派遣した事を知る。そして七月に長崎で発生したキリシタン一揆は在九州の朽木勢により鎮圧されイスパニアの援軍も撃破されたが、主人公はイスパニア領呂宋攻めを決断、その際に後背地となる琉球の武力併合[注釈 38]を決める。

同年九月、蘆名氏と佐竹氏を滅ぼし、奥州北部の主要勢力[注釈 39]は朽木に恭順する。十月、黒川城に集結した朽木・上杉の連合軍十八万が北上を開始、米沢城に集結した奥州連合軍八万も南下し、置賜郡笹野(笹野山の麓)で対峙する。

改変

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主人公は前世で歴史改変物の小説執筆を考えており、二歳で当主となると後見の祖父を通して、その際に考案した施策を使って領内改革に着手する。祖父に”何をするつもりじゃ?”と問われた主人公は、富国強兵殖産興業所得倍増を挙げた。

また朽木家が拡大するにしたがって、単に領内を豊かにするだけではなく、日本全体の統治体制や舵取りを考えるようになり、周辺国(琉球、明、朝鮮)やアジアに進出した欧州列強(キリスト教)との外交も主要な課題となっていった。

朽木谷

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殖産興業
領民に種を配布して、換金性の高い綿花の栽培を奨励する。当時国内生産は少なく、多くを輸入に頼っていた綿は需要が高かった。また石鹸の製法を領民に教え、菜種油や綿花栽培の副産物(綿実油)を使って石鹸生産も奨励する。
他に朽木家の家業として、澄み酒醸造椎茸栽培を始める。当時の日本酒はまだ濁り酒が主流であり、椎茸の栽培技術は無かった。
また澄み酒の普及により、朽木領の木地師塗師による多彩な色彩を施した木製の酒杯(濁り酒では模様が見えにくい)も人気となり、主要産地の一つに成長するなど、波及効果も見られた。
領地経営
税制は、税率を四公六民に軽減し、納税は米から銭に転換する。また関を廃して、楽市楽座を宣言する。
この税制と換金産物の生産により領内に銭が浸透し始め、旧来の米本位制から貨幣経済に切り替わっていく。
なお楽市楽座は、豊かになったとはいえ朽木領程度では効果が出るほどの経済規模は無く、関の廃止と併せて商人たちから「朽木は商売がしやすい」と高評価された事の方が大きい。ただ、領地が広がるにつれて、楽市楽座も効果を発揮していく事になる。

これら施策の成功は、朽木が山間地とはいえ大消費地の京都に直結する街道沿いで、昔から多くの商人が行きかう地理的な好条件下に位置していたことが大きい。朽木家も街道を行き来する若狭の商人達と繋がりがあり、関所の廃止もあって良好な関係性を深めていく。

軍事関連
将軍義藤に頼んで、近江国友村から鉄砲鍛冶を呼び寄せる。
当時すでに鉄砲の産地として知られた国友であったが、その起源は義藤の実父で第11代将軍の足利義晴が見本となる銃を渡して製造を命じたことによる。その経緯もあって製法を門外不出と定めていた国友村も依頼を断れず、移住した鉄砲鍛冶から朽木の鉄砲生産が始まった。
早くも天文二十二年(1553年)には年産20丁を数え、主人公の初陣となった永禄二年(1559年)の戦いでは、総勢300の朽木勢の中で、鉄砲隊は200と過半を占めた。
将軍ブランドを使った策は続き、周囲の刀鍛冶に”将軍の為の刀を打ってみないか?”と勧誘をかけ、若狭・美濃・伊勢から複数の流派(来派相州美濃千子村正)の刀鍛冶が朽木に移住して、それらが融合して後に朽木物と呼ばれる刀の産地となる。
また、義藤(義輝)が後世「剣豪将軍」と呼ばれていたことを思い出し、天文二十三年(1554年)鹿島から将軍指南として塚原卜伝の弟子を招聘する。指南を受けるのは将軍だけではなく、朽木家にも道場を設えて将兵の鍛錬に寄与させた。
同時期、大叔父朽木惟綱が預かる支城の西山城で極秘に硝石生産を始め、火薬の生産に着手する。この朽木領での火薬生産は後々まで秘匿された。
資金に余裕が出来ると徐々に傭い兵(銭で雇った兵)を増やし、兵農分離を進めている。初陣(8千石)時の動員数は300で、武士(一族郎党)50に対して傭い兵250で編成された。

国内・組織

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税制(四公六民、銭による納付)や関の廃止・楽市楽座は後々まで堅持され、綿花と石鹸の奨励は北陸や伊勢に伸張した時期までは言及がある。 鉄砲生産は国友や堺などと並ぶ一大生産地に発展している。また硝石生産も順次増強していったと思われ、一回目の九州攻めの時期には高島郡・伊香郡・浅井郡といった北近江一帯が生産地となっており、朽木家の本拠地での生産に制限されている模様。朽木家の家業(清酒、椎茸)については戦国大名として認知され始めた時期以降は触れられておらず、これも近江が中心と思われる。

八門衆
主人公が使う忍者組織。名称は朽木家に仕官した際に、主人公が命名した。
元は源平合戦の時代に九郎判官に仕えた、黒野慈現坊など鞍馬山に集まった”羽黒山伏”達の末裔。義経滅亡後は上方に逃れ、承久の乱で上皇方に付いて敗北。その後は丹波山中に隠れ住んで建武の新政の前後は足利方に付いたが、高師直師泰兄弟の滅亡に連座、そのまま雌伏の時を過ごしていた。
同じ山の民の木地師などから主人公の噂(領内改革など)を伝え聞き、天文二十三年(1554年)七月、統領の黒野重蔵影久が自ら主人公と接触して売り込む。この時”くらま流忍者百五十名、一族総勢四百名”と申告している(当時八千石の朽木の動員力は約300)。
実働部隊は十の組に分かれ、情報収集に長けており、調略や他国領内で流言飛語を広めるなど謀略戦にも活躍する。戦場で大将首を狙うなどの描写は無く、直接的な戦闘力に秀でている印象は薄いが、後に主人公の暗殺を狙う丹波忍び(村雲党)との戦いでは激烈な抗争に打ち勝っている。
拠点は仕官後も丹波山中のままであったが、丹波の波多野氏(配下の村雲党)との戦いが予想され始めた永禄十四年(1571年)、朽木谷に近い近江三国岳の麓に移動した。
朽木仮名目録
永禄四年(1561年)浅井家を滅ぼして北近江を制した後に、領内支配の根本として分国法を定める。
基にしたのは今川仮名目録で、時代に合わせて調整されたもののほぼ同じ内容で、守護不入を否定している。
初期の領土拡張時に朽木に仕官した有為な人材(初期の軍略方・兵糧方など)の中には、竹中半兵衛(重治)の様にこの目録を見て朽木への仕官を決めた人物もいる。
副将
主人公の初陣は元服前の11歳であり、対浅井戦が本格化すると譜代の日置五郎衛門(行近)が副将として付き添った。これ以降、朽木家では副将を置くことが恒常化した。
浅井攻めから若狭までは五郎衛門が副将を勤め、永禄九年(1566年)の越前攻めでは五郎衛門が六角への抑えとして清水山城に詰め、代わりに金ヶ崎城に居た真田弾正忠が付き添った。
永禄十四年(1571年)の第二次山科合戦から、弾正忠が引退して元軍略方の明智十兵衛(光秀)が務めている。十兵衛が対毛利攻めを担当した頃から置かれていない。
軍略方・兵糧方
軍略方は主に対外戦の作戦立案を行う役職で、築城も担当する。最初は明智十兵衛、竹中半兵衛、沼田上野之助(祐光)が務めた。
兵糧方は主に後方支援であるが、事前の見積から実際の物資集積と輸送を担当しており、旧来の荷駄奉行(補給品の輸送担当)とは一線を画す重職となる。後に領内の街道整備を担当する事になり、重要性が増していった。最初は京から戻った伯父の朽木右兵衛尉(直綱)と左衛門尉(輝孝)が勤め、翌年には近習だった(山口教継の庶子)山口新太郎(教高)と山内伊右衛門(一豊)が加わる。
評定衆
朽木家の政策方針や家臣間の紛争など話し合う評定に参加する役職。評定には奉行衆も参加、大評定では軍略方・兵糧方も参加する。
親族・譜代・外様からそれぞれ選ばれる。新規に制圧した地方(六角家や織田家など)から加わえることで、その地方の国人達の窓口になる事が多い。
奉行衆
主に朽木家譜代の家臣が就任する役職。御倉奉行・公事奉行・殖産奉行・農方奉行などがある。
御倉は財政、公事は行政や司法、殖産は産業振興、農方は農政、を担当する。
相談役
六角家の反朽木派として知られた蒲生下野守が引退した際に、相談役として登用したのが嚆矢となる。
主人公は「無理に隠居なんてさせると悪巧みしかねん。表に出して使った方が安全」と言っている。似た事例としては、主人公によって野心を潰され隠居させられた長宗我部宮内少輔も相談役となっている。
他は主人公に近い者(八門の黒野重蔵、舅の平井加賀守、元副将の真田弾正忠など)が引退した後に相談役となっている。また、飛鳥井曽衣は対立していた長宗我部の登用に併せて、三好家に仕えていた松永兄弟は義継の子が成長した事で、それぞれ相談役となった。
海上交易
永禄六年(1563年)に日本海側の敦賀を得ると、海上交易に乗り出す。越後の長尾景虎とは将軍が朽木に居た天文二十二年(1553年)に会って以降、友好な関係を持続していたため越後から蝦夷地方面に交易船を出している。後に若狭の小浜港も加わり、朝鮮の船(私貿易船)を呼び寄せている。
太平洋側の伊勢・志摩を領すると、土佐を経由した琉球との交易を始める。これは京都の一条家が、土佐の分家を支援してもらうための交換条件として持ってきた話。これ以降、土佐の情勢は朽木にとって特別な意味を持つことになった。
大砲
永禄十年(1567年)にポルトガル商人から、カルバリン砲セーカー砲を各3門購入。同年六月の第一次山科合戦で、各2門を実戦投入する。
残り1門を使って模倣生産を開始。元亀四年(1576年)の播磨攻略戦では「大筒を百二十門」を揃えて一向宗の拠点英賀を集中攻撃、大筒のみで城の構えを破壊している。
ただし、国内の複雑な地形から運搬には多大な労力を要し、意外と活躍する場面は少ない。
南蛮船
永禄十一年(1568年)に小浜で最初の南蛮船を建造している。後に志摩でも九鬼孫次郎が建造を始める。主に若狭と九鬼の水軍が運用し、他国の水軍を圧倒する。
形式等の詳細は不詳であるが、当時の状況からキャラック船(ナウ船)の一種と想定される。
入手先も不詳だが、時期的にはカルバリン砲やセーカー砲と一緒にポルトガル人から購入したと思われる。
街道整備
領内の関を廃して楽市楽座を実施するなど、領内経済の振興を重視していた主人公だが、街道整備に本腰を入れるのは意外と遅く永禄十二年(1569年)となった。
この年、伊勢侵攻を計画していたが、近江から伊勢への街道は急峻な地形から進軍・補給が容易ではなく、そうした中で家臣からの進言を受け入れ、領内の街道整備に着手する。
まずは近江と敦賀間で始まり、伊勢を制圧した後は近江伊勢間が加わり、領地が拡大するとともに整備する街道も拡大を続けた。
この大規模な街道整備は後方支援を担当する兵糧方の担当とされ、兵糧方は単なる補給・支援役ではなく膨大な予算と人員を扱う主要職として認められていく。
相国府
太政大臣(相国)となった主人公が主催する政の府。
鎌倉以来の幕府体制に代わる武家の府として、主人公がたどり着いた体制。また将軍職は朽木家の世継ぎを示す職と定める。
主人公は、将軍職が令外官律令制に含まれない不正規の官職)であることから、新たな幕府を開くことには消極的な考えを持っており、既存の公家社会と干渉せずに並立出来る体制を模索していた。
その中で、太政官律令制による正規の官職)の最高職である太政大臣の地位が多くの場合で空いていることに着目し、昵懇であった摂家近衛前久らと話し合いを重ねて決断した。

外交

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琉球
土佐を経由した交易が早い内から始まり、一時期は交易を独占しようとする薩摩の島津家との争点ともなった。
島津を下した後は主人公から日本帰属を誘われるようになり、使節団を派遣している。当時の琉球では明の政策変更によって中継貿易が衰退する状況で日本との交易が重要度を増し、また明の情勢(万暦帝による治世)への危惧から、”表向き日本に帰属する”提案(事実上の保護国)は受け入れられつつあった。
しかし、ルソンからイスパニア軍が派遣された事を察知すると、事態が収まるまで予定された使者派遣を見送るなど”日和見”したため、主人公は武力併合を決める。
朝鮮
儒教に基づく統治体制から一種の鎖国政策を実施し、他国との交易を制限している。
主人公は前世知識から豊臣秀吉のような武力侵攻は考えていないが、対馬宗氏が朝鮮に従属の形をとって交易している事を知っており、問題視した。ただ、いたずらに禁止しただけでは解決しない事も理解しており、2回目の九州攻めの後に宗氏を筑後に移封して対馬を朽木家直轄地とした。
そして西笑承兌や宗氏の旧家臣で対朝鮮交渉に通じていた者を登用して、交易交渉を開始する。
この当時は悪名高い万暦帝の治世で、下海通蕃の禁は一部解除されているが、日本との交易はまだ禁止されている。
いまだ直接的な接触は行われておらず、主人公は明の冊封体制下にある琉球や朝鮮から間接的に関係を持つ事を考えており、自身が「日本国王」として冊封体制下に入ることには否定的。
イスパニア(呂宋)
スペインのこと(スペインは英式の呼び名)。
永禄十三年(1570年)頃に、呂宋などフィリピンを領有して植民地化した。(主人公が長島一向一揆攻略の準備をしていた時期)
日本で布教するイエズス会の事実上の後ろ盾であるが、かといってポルトガル系のイエズス会と仲が良い訳でもない(1580年から、スペイン王がポルトガル王を兼任)。
禎兆八年(1588年)、主人公が奥州制圧戦を行っていた最中に勃発した長崎のキリシタン一揆支援のため、イエズス会の要請で数は不明ながら兵とイスパニア船を派遣する。
この一揆は直ぐに鎮圧されイスパニア船も撃破されるが、この件でルソンへの侵攻を現実的に考えるようになり、その前段階として琉球攻めを決定する。

周囲への影響

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主人公の史実と異なる行動は周囲に波及的な影響を与え、史実と異なる状況が形作られていった。以下に主な物を挙げる。

野良田の戦いの影響
史実では敗北した六角は、浅井を牽制するため美濃一色と協力関係になるが、作中では勝利して翌年に浅井が滅び、美濃と接する坂田郡を手に入れる。そして右衛門督義治の功名心に縁戚土岐美濃守左馬助親子の要請(大義名分)もあって、永禄五年(1562年)四月に美濃に侵攻する。
この侵攻の矢面に立たされたのが、不破郡菩提山城に居た竹中半兵衛であった。元々斎藤道三方だったため一色龍興に疎まれていたが、そこに六角配下の甲賀衆による謀略が加わり援軍を得られず、孤立無援の中で大野郡大御堂城に退去する。そして竹中家存続のため、家督を弟の久作(重矩)に譲って浪々の身となる(後、朽木家に仕官)。その後奪還に動いた一色家との不破郡を巡る抗争は和睦まで約一年に渡って続き、六角を弱体化させると共に家督相続が絡んでお家騒動に発展していく。
また六角だけでなく美濃と尾張(織田信長)の抗争にも影響を与え、竹中半兵衛の出奔により永禄7年(1564年)2月の稲葉山城奪取は起きず、史実より弱体化しなかった龍興の抵抗により、信長による美濃併合は約一年ほど遅れ、稲葉山城が落ちたのは永禄十一年(1568年)十一月となった。(美濃平定の遅れには、三河一向一揆の長期化も影響した)
第四次川中島合戦
この合戦の二年前、永禄二年(1559年)四月に長尾景虎は関東管領従四位下近衛少将就任に伴い上洛、帰路に清水山城に寄って主人公から「死生命無く、死中生有り」との助言を受ける。翌年、関東管領上杉家を継承して関東に出陣、その翌年の永禄4年(1561年)に、史実通りに武田晴信と川中島で激突する。
上杉景虎は総勢1万5千を率いて妻女山に布陣、その全軍を持って川中島の武田本陣へ突入した。史実では1万3千を率いて妻女山に布陣、武田の別動隊への備えを残して、凡そ一万余りで川中島へと攻め込む。
結果として史実の1.5倍ほどでの強襲となり、武田晴信は重傷を負い周囲は戦死と錯覚する。それにより武田軍は全面的な潰走となり、多くの有力諸将が戦死した。この大敗で、それまで武田優勢で進んでいた北信濃侵攻は完全に頓挫、以後の武田は上杉方の攻勢に晒されて、最終的に諏訪を残して信濃から駆逐されてしまう(武田晴信は2年後に死去、勝頼が信頼と改名して後を継ぐ)。
この影響は周辺国に波及、甲相駿三国同盟はより防衛的な相互依存を強め、弱体化した武田は対上杉で北条との連携を強化、永禄三年(1560年)の桶狭間の大敗で弱体化した今川への支援も積極的に行う。武田からの要請を受けた石山本願寺は、伊勢長島一向一揆を通じて三河の一向宗を支援。史実では永禄六年(1563年)に始まり約半年で終息した三河一向一揆は長期化(完全鎮圧は永禄十三年-1570年-)し、その間に体制を整えた今川による三河への浸透もあって自立を目指した松平元康(徳川家康)による三河統一は頓挫した。また美濃を攻略した織田信長も苦戦する徳川を放置できず、勢力伸長の矛先を東海道に定め、主人公の伊勢侵攻を快諾した。
畠山高政の挙兵
史実では永禄四年(1561年)四月に三好長慶の弟十河一存が病死すると、河内・紀伊の守護畠山高政が近江の守護六角義賢を誘って三好に対して挙兵している。作中でも同時期に畠山から六角に打診があったが、主人公から浅井の背後にいた朝倉の事や若狭の状況などを知らされた義賢は、当面は浅井・朝倉対策に専念する事を決めて誘いを断った。これにより畠山の挙兵もいったんは見送られ、挙兵はその四年後の(三好長慶の死亡、永禄の変の後)永禄八年(1565年)となった。
この影響は畿内、特に三好氏家に大きく作用し、史実では永禄五年(1562年)久米田の戦いで戦死した三好実休が生存、晩年の長慶が安宅冬康を謀殺することも無かった。また内藤宗勝が丹波で敗れはしたものの生き延びるなど、長慶以後の三好勢力は史実より強固な勢力を維持する。有力者が複数生存した事で、その後の分裂劇も史実とは異なる経緯を辿っていく。
他に第十四代将軍にも影響する。史実通りに三好家(実休派)に擁立された足利義栄であったが、畠山との戦いで三好優勢が確立した永禄十一年(1568年)に史実通りに死去し、将軍となったのは弟の義助となった。また六角軍が京を占拠した影響で失脚(挙兵して戦死)した幕府政所執事の伊勢貞孝も生存し、後に主人公に仕えて朝廷との折衝役として重用される。

用語

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朽木谷
近江高島郡(現在の高島市)に属し、安曇川上流にある丹波高地東端の花折断層と比良山地に挟まれた谷底にある小盆地
若狭小浜から京都に通じる山間の谷を走る街道(鯖街道)に位置しており、昔から京都・若狭と繋がりがある。また高島郡の中心地は琵琶湖の湖畔にあり、朽木谷とは安曇川沿いの険しい谷道によって繋がる。そのため京都と直結していながら、周囲に対しては天然の要害の地となっている。
朽木氏
朽木家は、鎌倉時代から代々朽木谷を領有する豪族。
近江でも琵琶湖周辺からやや隔離された地理的な要因と、佐々木源氏庶流高島氏に属する事から、近江の守護勢力六角氏京極氏)とは距離を置き、六角氏に属している時期もあるが独立心が強い家である。
代々将軍の偏諱を受けるのが慣例化しており、曾祖父信濃守材秀は第10代将軍足利義材(後の義稙)から、祖父民部少輔稙綱も同じ足利義稙から、父の宮内少輔晴綱は第12代将軍足利義晴から、伯父の長門守藤綱と左衛門尉輝孝は第13代将軍足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けている。
また正妻を公家から迎える事も多く、高祖父貞綱は甘露寺家(幕府政所執事伊勢家の養女)、材秀は不明だが、続く稙綱は葉室家、晴綱が飛鳥井家となっている。
将軍家との関係は、(第11代将軍)足利義維との抗争に敗れた足利義晴を朽木谷に保護し、大永8年(享禄元年、1528年)から享禄4年(1531年)の2年半は朽木谷に幕府が置かれたほどで、稙綱は奉公衆から内談衆に加わり、特に幕府直臣としての意識が強い人物となる。
幕府が京に戻って以後も度々将軍が朽木を訪れる事があり、作中では主人公が生まれる少し前にも義稙が朽木に滞在していたことから、主人公に「将軍のご落胤」説が出る事になった、としている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 史実通り、政争に敗れて避難。一年ほどで和睦して帰京
  2. ^ 三千の兵を待機させた三好に対して従うことを拒否、さらに”高が三千……、三万でも答えは変わりませぬな”と言い放つ。これが世上の評判となり、「将軍家の忠臣」との評価が広まる
  3. ^ 他にも浅井家の有力者遠藤喜右衛門赤尾美作守片桐孫右衛門新庄新三郎を打ち取る
  4. ^ 伊香郡塩津浜村、現在の長浜市西浅井町塩津浜
  5. ^ 重臣平井加賀守の娘・小夜。浅井新九郎の元正妻
  6. ^ 北の朝倉を朽木が、西の三好と東の一色を六角が、それぞれ対応する
  7. ^ 影響については周囲への影響を参照
  8. ^ 剃髪して承禎と号す。当主は右衛門督が継承
  9. ^ 史実の観音寺騒動とは異なり、重臣の後藤但馬守だけでなく、父の承禎・弟の次郎左衛門尉も右衛門督により殺害
  10. ^ 大野郡司朝倉式部大輔敦賀郡司家朝倉孫九郎)を滅ぼし、それを咎めた本家当主の朝倉左衛門督を殺す。主人公が八門衆を使って不和を煽っていた
  11. ^ 当主武田義統の母が六角義賢の妹、正妻が足利義輝の妹で、将軍家と六角家が後ろ盾となっていた
  12. ^ 美濃と接した事で、一色右兵衛大夫と抗争中の織田上総介と緩い同盟関係を結ぶ
  13. ^ 六角義賢の姉の子で義治の従弟。従五位下左京大夫に叙任、近江守護に就任
  14. ^ 堅田を含む滋賀郡の多くは比叡山延暦寺の寺領
  15. ^ 有力国人逸見駿河守は滅亡、粟屋越中守は縁戚勧修寺家の説得で降伏
  16. ^ それまで朝廷からの打診を全て辞退していたが、六角家からの自立を明らかにすると共に、比叡山延暦寺焼き討ちの承認、という意味合いから受ける
  17. ^ 六角の影響が強かった北伊勢に影響力を及ぼす
  18. ^ 能登には畠山修理大夫を戻し、切腹した遊佐美作守長対馬守の遺族を朽木で引き取る
  19. ^ 本願寺の仲介により、湯川中務大輔雑賀衆根来衆湯浅衆など
  20. ^ 再侵攻を来年と予想した北畠家は朽木配下の八門衆に唆されて手持ちの兵糧米を高値で売却、その資金で武器を購入したが、予想外の早期再侵攻で兵糧を集められずに降伏。ただ足利義昭の介入により北畠家を南伊勢に残すことになった
  21. ^ 一種の自治都市で、松坂、大湊、山田、宇治、桑名がある
  22. ^ 志摩を放逐されていた九鬼孫次郎(嘉隆)を戻して、南蛮船を建造させる
  23. ^ 自治()を認める代わりに、朽木以外からの依頼は受けないとする取り決め
  24. ^ 恩賞として副将軍あるいは管領が提示されたが辞退、相伴衆への格上げも辞退。唯一、に代官を置く
  25. ^ 紀伊の畠山高政、大和の松永久秀、丹後の一色義道、丹波の波多野秀治に加え、河内に三好義継、泉に内藤宗勝、摂津に和田惟政を配置
  26. ^ 摂津から上陸して和田勢を撃破、他が動く前に京に攻め寄せた
  27. ^ 断続的な戦いの末、最後は威圧と調略で自壊
  28. ^ 主人公の第三子、北陸に影響力を持つ氣比大宮司家出身の側室・雪乃の第一子、この時7歳。後に前関白近衛前久の養女
  29. ^ 「三村は毛利(と宇喜多)に嵌められた」との風評を流布
  30. ^ 数日後に死亡、義昭の妹で正妻の詩は即死
  31. ^ 主人公の第六子、正妻・小夜の第三子(長女)、昨年十一月に生まれたばかり
  32. ^ 畿内で騒動を起こして地方に逃げた将軍ではなく、朽木が朝廷の庇護役と明らかにする為の人事
  33. ^ 徳川家は三河から甲斐に国替え
  34. ^ 現在の糖尿病
  35. ^ 対毛利戦が予想外に早期決着したため、徐々に官位を上げる予定が繰り上がった。右近衛大将を早期辞任したのは、定員1名のため長く在官するのを避けた
  36. ^ 劣勢の大友と、大友と同列に扱われた龍造寺は、共に受け入れる
  37. ^ 東海から相模へと通じる鎌倉街道の要衝、現在の箱根湯本付近
  38. ^ 尚永王は日本帰属の証として人質(王弟)を送る約束を交わすが、イスパニア軍の派遣を知ると人質派遣を止めて日和見に転じ、主人公の信用を失う
  39. ^ 九戸左近将監(政実)大浦弥四郎(為信)南部九郎(信直)安東藤太郎(実季)

出典

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外部リンク

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