朽木稙綱 (戦国武将)
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朽木 稙綱(くつき たねつな、生没年不詳)は、戦国時代の武将。近江国朽木谷の国人。父は材秀、子には晴綱、藤綱、成綱、直綱、輝孝がいる。
生涯
編集生年は不明で、朽木文書内での初見は永正2年(1505年)で「竹松」という幼名で登場し、室町幕府奉行人の飯尾元行、松田頼亮から奉書を受け取っている。
正確な元服年はわからないが、永正13年(1516年)には父・材秀(きひで)同様、室町幕府10代将軍足利義稙から偏諱を受けて稙広(たねひろ)と名乗り、大永2年(1522年)から同4年の間に稙綱(たねつな)と改名。官職は民部少輔。
永正初年(16世紀初め頃)には幕府奉公衆として御所御門役を務め、1525年の浅井攻めでは六角定頼軍に従い、その先鋒を務めている。将軍足利義晴・義輝父子が朽木谷へ逃亡した際の朽木氏当主であり、12代将軍・義晴の時代(天文初期~中期、1530年代~1540年代)には、将軍の側近集団であった内談衆の1人として幕府の政治的な決定にも関与している。また、13代将軍・義輝の代には将軍の御供衆に任命された。
近江国の六角氏や京極氏と争い、あくまで独立を維持していたが、六角定頼が勢力を拡大してくると、その配下として服属せざるを得なくなったという。
没年についても定説はない。朽木文書中で最後に登場するのは天文18年(1549年)であるが、永禄5年(1562年)の史料にも登場するという説もあり[1]、1560年代まで生存していた可能性もある。