赤尾 清綱(あかお きよつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将浅井氏の家臣。浅井三将の一人。

 
赤尾 清綱
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 永正11年(1514年
死没 天正元年9月1日1573年9月1日
別名 孫三郎(通称)
官位 美作守(受領名)
主君 京極高清高延浅井亮政久政長政
氏族 赤尾氏
父母 赤尾教政[1]
清冬、四郎兵衛、伊豆守、孫介、菊姫
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生涯

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永正11年(1514年)、赤尾教政の子として生まれる。赤尾氏は近江の国人で、元々は京極氏の傘下であったが、後に海北氏雨森氏と並ぶ「浅井三将」に数えられた。清綱は近江浅井氏初代・浅井亮政の頃から浅井氏に仕えた。当主からの信頼がとりわけ厚く、小谷城内の防衛の要所に赤尾曲輪と呼ばれる居館をもち、そこに在番していた。通常、家臣は城下に武家屋敷を持ち、そこを居館とするものだが、城内に居館を持つのを許されており、その信頼の厚さが窺われる。

久政の代には、同家臣・遠藤直経らと共にその子・長政への家督委譲と久政の隠居を計画、久政が城を出た隙に小谷城を占拠し、長政への家督委譲を認めさせた[2]。長政が当主となった頃には老齢であったため、主に軍目付的な存在として陣中に赴いていたという。また、亮政が六角氏との攻防により一時越前に退避、朝倉氏と同盟を結び再起を図ったという経緯から、家中では朝倉寄りの立場を取りつづけた。

赤尾曲輪を設けて在番し、赤尾美作守として著名となった。

天正元年(1573年9月1日小谷城の戦いで織田軍に敗北して捕虜となり、信長の目前で切腹した[3]。享年60歳。

赤尾屋敷で浅井長政とその弟の政元と共に自害した[4]とする説もある。

脚注

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  1. ^ 大日本地誌大系 第26巻』より
  2. ^ この家督交代劇は、武田信虎から家督を奪い取った武田晴信らの行動と似てはいるが、信虎が生涯躑躅ヶ崎館への帰還が叶わなかったのに対し、久政は長政や家臣らと和解し、すぐに小谷城へ戻っている。
  3. ^ 信長公記』巻六。
  4. ^ #ビジュアル解説 切腹で読む日本史 漢の美学、ここにありp.33 綜合図書

登場作品

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