京都市立桃薗小学校
京都市立桃薗小学校(きょうとしりつ とうえんしょうがっこう)は、京都市上京区にあった公立小学校。明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成7年(1995年)に京都市立西陣小学校と共に京都市立桃薗西陣小学校に統合され、閉校した。京都市立桃薗西陣小学校は、平成9年(1997年)に京都市立成逸小学校、京都市立聚楽小学校と共に、京都市立西陣中央小学校に統合された。
京都市立桃薗小学校 Toen elementary school | |
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北緯35度01分50.1秒 東経135度44分52.7秒 / 北緯35.030583度 東経135.747972度座標: 北緯35度01分50.1秒 東経135度44分52.7秒 / 北緯35.030583度 東経135.747972度 | |
過去の名称 |
上京第十一番組小学校 大宮校 桃薗校 桃薗尋常小学校 桃薗尋常高等小学校 京都市桃薗国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 京都市 |
設立年月日 | 明治2年(1869年)7月8日[1] |
創立者 | 上京第十一番組 |
閉校年月日 | 1995年(統合先は桃薗西陣小学校、現在の京都市立西陣中央小学校) |
共学・別学 | 男女共学 |
所在地 | 〒602-8441 |
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概要
編集沿革
編集- 1869年(明治2年) - 上京第十一番組小学校が大宮校として開校[2][4][5][6](開校日:7月8日[1]・10月1日[2][4])
- その後、校名を桃薗に改称[6]
- 1887年(明治20年)7月 - 京都市立桃薗尋常小学校に改称[2][4]
- 1902年(明治35年)4月 - 高等科を設置し、桃薗尋常高等小学校となる[2]。
- 1909年(明治42年)4月 - 高等科を廃し、桃薗尋常小学校となる[2]。
- 1941年(昭和16年)4月 - 京都市桃薗国民学校に改称[2]
- 1943年(昭和18年)- 嘉楽国民学校が高等科のみとなり、初等科を乾隆校と桃薗校に分属[7]。
- 1947年(昭和22年)4月 - 学制改革により京都市立桃薗小学校となる[2]。
- 1995年(平成7年)- 京都市立桃薗西陣小学校に統合され閉校[6]
- 1997年(平成9年)- 桃薗西陣小学校、成逸小学校、聚楽小学校が西陣中央小学校に統合[6]
元桃薗小学校地は、京都市立西陣中央小学校になっている。
桃薗学区
編集桃薗学区(とうえんがっく)は、京都市の学区(元学区)のひとつ。京都市上京区に位置する。明治初期に成立した地域区分である「番組」に起源を持ち、学区名の由来ともなるかつての桃薗小学校の通学区域であり、今でも地域自治の単位となる地域区分である。
明治2年(1869年)の第二次町組改正により成立した上京第11番組に由来し、同年には、区域内に上京第11番組小学校(大宮校、のち桃薗に校名を改称)が創立した。明治5年(1872年)には上京第8区、明治12年(1879年)には区が組となり上京第8組となった[5]。学区制度により明治25年(1892年)には上京第7学区となった[8]。
昭和4年(1929年)に、学区名が小学校名により改称され、上京第7学区から桃薗学区となった[5]。昭和17年(1942年)に京都市における学区制度は廃止されるが[9]、現在も地域の名称、地域自治の単位として用いられている。
人口・世帯数
編集京都市内では、おおむね元学区を単位として国勢統計区が設定されており[10]、桃薗学区の区域に設定されている国勢統計区(上京区第1国勢統計区[11])における令和2年(2020年)10月の人口・世帯数は4,718人、2,843世帯である。
地理
編集上京区の中央部に位置する学区であり、北側で西陣学区、東側で小川学区、南側で聚楽学区、西側で嘉楽学区と接する。区域は、おおむね東は堀川通、西は浄福寺通、北は五辻通の北、南は一条通で限られ、面積は0.25平方キロメートル[12]である。
桃薗学区内の通り
編集桃薗学区の町名
編集北之御門町、薬師町、元北小路町、桜井町、五辻町、観世町、芝大宮町と西陣学区の樋之口町は、江戸時代に糸問屋の集まる「糸屋八町」を構成した[13]。
- 南舟橋町
- 橋之上町
- 竪門前町
- 堀川上之町
- 徳屋町
- 晴明町
- 竪神明町
- 横神明町
- 毘沙門町
- 弾正町
- 芝大宮町
- 観世町
- 薬師町
- 北之御門町
- 石薬師町
- 下石橋町
- 栄町
- 桜井町
- 橘町
- 五辻町
- 西船橋町
- 北猪熊町
- 元伊佐町
- 元北小路町
- 横大宮町
- 南門前町
- 富小路町
- 寺今町
- 元妙蓮寺町
- 桝屋町
- 橋詰町
周辺
編集徳川綱吉の時代、大宮通沿いに糸問屋の集まる「糸屋八町」がつくられ、現在の大宮今出川の辺りは一日千両に値する生糸・織物を商った「千両が辻」と呼ばれ、西陣織の中心地であった[13]。
桃薗学区内の主な施設
編集脚注
編集- ^ a b 京都市学校歴史博物館 編「番組小学校の変遷」『京都 学校物語』京都通信社、2006年、94-95頁。ISBN 4-903473-20-1。(設立日の日付は旧暦である。)
- ^ a b c d e f g h 「京都市立桃薗小学校」『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年、225頁。doi:10.11501/12111830 。
- ^ “学区案内/桃園学区(とうえん)”. 2023年11月18日閲覧。
- ^ a b c 「上京区桃薗学区」『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年、37-38頁。doi:10.11501/1440637 。
- ^ a b c 「桃園学区」『史料京都の歴史 第7巻 (上京区)』平凡社、1980年、524-525頁。doi:10.11501/9574460。ISBN 9784582477078 。
- ^ a b c d 京都市学校歴史博物館. “京都市立小学校の変遷”. 2023年8月11日閲覧。
- ^ 「嘉楽学区」『史料京都の歴史 第7巻 (上京区)』平凡社、1980年、490-491頁。doi:10.11501/9574460。ISBN 9784582477078 。
- ^ 明治25年6月3日府令第42号(京都市尋常小學校々數位置幷ニ小學區ノ件)「明治25年6月3日府令第42号」『京都府府令達要約 明治25年 第13編上巻』1892年、276-288頁。doi:10.11501/788418 。
- ^ 京都府立総合資料館 編「昭16(1941)年」『京都府百年の年表 5 (教育編)』京都府、1970年、202頁。doi:10.11501/9537074 。
- ^ “用語の解説(京都市の人口 令和2年国勢調査結果)”. 2023年8月17日閲覧。
- ^ 令和2年国勢調査時点
- ^ 京都市地域統計要覧ウェブサービスの国政統計区別集計において、総務省統計局「地図で見る統計(jSTAT MAP)」に登録されている境界データから算出された数値として示される面積
- ^ a b 「桃薗」『上京区140周年記念誌』上京区140周年記念事業実行委員会、2020年、44-45頁 。
参考文献
編集- 「桃園学区」『史料京都の歴史 第7巻 (上京区)』平凡社、1980年、524-525頁。doi:10.11501/9574460。ISBN 9784582477078 。
- “学区案内/桃園学区(とうえん)”. 2023年11月18日閲覧。
- 「上京区桃薗学区」『京都市学区大観』京都市学区調査会、1937年、37-38頁。doi:10.11501/1440637 。
関連文献
編集- 『京都市の地名』平凡社〈日本歴史地名大系27〉、1979年。ISBN 4-582-49027-1。
- 碓井小三郎「上京第七学区之部」『京都坊目誌 上京之部 乾 上巻之六-十一』1915年、186-204頁。doi:10.11501/1210439 。
- 「桃薗」『上京区140周年記念誌』上京区140周年記念事業実行委員会、2020年、44-45頁 。
- 「京都市立桃薗小学校」『京都市立学校園沿革史』京都報道センター、1981年、225頁。doi:10.11501/12111830 。