松平 斉善(まつだいら なりさわ)は、江戸時代後期の大名福井藩15代藩主[注釈 1]官位正四位下左近衛権中将。12代将軍・徳川家慶の異母弟。

 
松平 斉善
時代 江戸時代後期
生誕 文政3年9月24日1820年10月30日
死没 天保9年7月27日1838年9月15日
改名 民之助または千三郎(幼名)→斉善
別名 通称越前守
戒名 諦観院廓誉超勝常然大居士
墓所 福井県福井市運正寺
東京都品川区南品川の海晏寺
官位 従四位上少将上座、正四位下少将、左近衛権中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉家慶
越前福井藩
氏族 徳川将軍家福井松平家
父母 父:徳川家斉、母:本輪院
養父:松平斉承
兄弟 清湛院徳川家慶徳川敦之助峰姫徳川斉順浅姫徳川虎千代、元姫、徳川斉明、文姫、徳川斉荘、盛姫、池田斉衆溶姫、和姫、斉民末姫喜代姫徳川斉温斉良永姫徳川斉彊斉善蜂須賀斉裕斉省斉宣泰姫ら26男27女
養兄弟:菊姫於義丸邦之助
養子:慶永(春嶽)
テンプレートを表示

生涯

編集

文政3年(1820年)9月24日、11代将軍・徳川家斉の二十二男として江戸城にて誕生。天保6年(1835年)閏7月11日、松平斉承の養子となり、従四位上・少将上座に叙任する。8月28日に養父の跡を受けて家督を相続する。同年10月28日、正四位下・少将に叙任する。実父でもある将軍・家斉の偏諱を拝領し斉善、また越前守を名乗る。天保8年(1837年)8月25日には左近衛権中将に進む。生来病弱であったと伝わり、天保9年(1838年)4月に江戸を出立し、初入国を果たすが、その直後の7月27日[注釈 2]に19歳で急死した。

死去の時点で嗣子がなく、本来ならば断絶するところであったが、兄・家慶の計らいと先代藩主・斉承の正室・松栄院(浅姫・家慶異母妹)の働きかけにより、従弟の慶永田安徳川家当主徳川斉匡の子)が継ぐこととなった。この時慶永は他家[注釈 3]への養子縁組が決定していたが、9月4日に急遽福井松平家の養子とされた。この手続きの整合性と正当性のため、越前国許からの斉善死去報告の使者は9月2日には江戸に到着していたが、「(国許での)斉善死去は8月28日。(だがそれとは知らないまま)江戸での養子縁組承認は9月4日。国許よりの使者到着は9月6日(に急使が到着した、とするなら、死亡日付は逆算して8月28日頃が都合がよいという設定)」とされた。

若年のまま死去し、またほぼ江戸在府であったため、藩政にその直接の足跡は少ないが、治世の期間の天保6年12月(1836年)には財政難を理由に領地を増やして欲しい、およそ90万両の赤字があると幕府へ届け、助成を仰いでいる。天保8年(1837年)に江戸上屋敷を焼失、再建費用として幕府より2万両を貸与されている。また同年8月には不作を理由に1万両を助成され、天保9年(1838年)7月初旬には松栄院(浅姫)の住居普請のため1万5000両を拝領している。

領内の凶作や火災被害の困窮者に対し、金銭援助や食料配給を行うなどの福祉策を行っている。変わったところでは天保8年(1837年)3月、風病流行のため藩主導で祈祷を行い、御札守を領内領民に配布している。

系譜

編集

偏諱を受けた人物

編集

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第13代となる。
  2. ^ 8月28日、8月24日説あり。
  3. ^ 伊予松山藩松平勝善

出典

編集