松平斉恒
松平 斉恒(まつだいら なりつね)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩の第8代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守。雲州松平家8代。
松平斉恒像(月照寺蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 寛政3年9月6日(1791年10月3日) |
死没 | 文政5年3月21日(1822年5月12日) |
改名 | 鶴太郎(幼名)、斉恒 |
別名 | 瓢庵、月潭、露滴斎、宗潔(号) |
戒名 | 月潭院殿露滴宗潔大居士 |
墓所 |
東京都港区南麻布の天真寺 島根県松江市外中原町の月照寺 |
官位 | 従四位下侍従、出雲守、出羽守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 出雲松江藩主 |
氏族 | 雲州松平家 |
父母 | 父:松平治郷、母:武井氏 |
兄弟 | 斉恒、男子、富、幾千 |
妻 |
正室:細川斉茲の娘・芳 継室:酒井忠道の娘・英 側室:八百 |
子 | 斉斎、信進 |
生涯
編集寛政3年(1791年)9月6日、第7代藩主・松平治郷の長男として誕生。文化元年(1804年)12月23日に元服し、11代将軍・徳川家斉から偏諱を授かって斉恒を名乗る。従四位下に叙位、侍従に任官、また出雲守を兼任する。
文化3年(1806年)3月11日、父・治郷から家督を譲られた。同日、出雲守から出羽守に遷任する。父の道楽などにより、松江藩の財政は再び悪化していた。また自身も茶や俳諧、書を能くした。塙保己一に延喜式の校訂を命じた。後年、雲州本と呼ばれる校定本であるが、斉恒や保己一の存命中には完成せず、跡を継いだ子の斉貴の代である文政11年(1828年)に完成した。文政5年(1822年)3月21日、32歳で死去した。