李家規宥
李家 規宥(りのいえ のりひろ)は、江戸時代の医師。毛利氏の家臣で、長州藩士(寺社組)。父は同じく毛利氏に仕えた李家如宥。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛永14年(1637年) |
死没 | 正徳4年11月19日(1714年12月25日) |
別名 |
仮名:勘兵衛 号:拙庵慶林 |
主君 | 毛利綱広→吉就→吉広→吉元 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 李家氏 |
父母 | 父:李家如宥 |
子 | 在宥 |
生涯
編集寛永14年(1637年)、長州藩士・李家如宥の子として生まれる。父が隠居する際に規宥は藩医となる事を断ったが、この時も未だに藩医が不足していたため、結局は剃髪して名を「慶林」と改め、藩医を務めることとなった。
以後、毛利綱広、吉就、吉広、吉元の四代に仕え、正徳4年(1714年)11月19日、死去。享年78。子の在宥(訥軒宗億、采女、慶甫)が後を継いだ。
参考文献
編集- 『萩藩閥閲録』巻141「李家宗億」