本田覚庵
本田 覚庵(ほんだ かくあん)は江戸時代の武蔵国多摩郡下谷保村(東京都国立市谷保)の地主・在村医。通称は孫三郎、名は定済・定脩、号は謙斎・安宇楼・楽水軒[1]。新選組近藤勇・土方歳三との関係で知られる。
本田 覚庵 | |
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生誕 |
本田謙蔵 文化11年(1814年) 武蔵国多摩郡貫井村(東京都小金井市) |
死没 |
元治2年2月11日(1865年3月8日) 武蔵国多摩郡下谷保村(東京都国立市谷保) |
死因 | 卒中 |
教育 | 江戸麹町産科医某 |
活動期間 | 天保8年(1837年) - |
親戚 | 土方歳三(養母の甥) |
医学関連経歴 | |
職業 | 在村医 |
専門 | 産科 |
生涯
編集文化11年(1814年)武蔵国多摩郡谷保村の大地主本田家の貫井村新屋分家に生まれ、母方の実家でもある本家本田孫三郎の養子となった[1]。幼名は謙蔵(造)[1]。
天保3年(1832年)江戸に出て麹町の産科医(安富家か)に入門し、『傷寒論』『五経之論』等を読み、本草学・鍼灸を学び、多和田養悦の輪読会に参加、丸薬の調合に従事し、武家屋敷への往診に同行する傍ら、愛宕神社・神田明神・目黒不動に参詣、11月9日長崎奉行大草高好の行列、閏11月4日琉球使節を見物した[2]。12月26日養父昂斎の病気を伝える飛脚便があり、急遽帰郷した[3]。
天保4年(1833年)2月13日父昂斎、天保5年(1834年)11月13日祖父随庵の死を見届け、天保8年(1837年)頃医業を開始し、近隣地域や分梅・屋敷分・府中・是政(府中市)・戸倉・国分寺(国分寺市)・貫井(小金井市)・立川・砂川(立川市)・日野(日野市)にまで往診し、産科を専門として難産や流産の後始末に立ち会った[4]。
嘉永頃から交代制で名主を務め、万延元年(1860年)多摩川の川除普請に関わり、関東取締出役や韮山代官所手代に宿を提供した[5]。幕末には江戸幕府の軍備増強に協力し、嘉永6年(1853年)韮山代官所から焔硝の製造を請け負い[6]、文久3年(1863年)3月15日軍用米30俵を提供した[7]。
元治2年(1865年)2月11日八つ時卒中により嘔吐・言語障害を生じ、夜五つ時死去、13日霊杏院大胸覚庵居士の戒名が贈られた[8]。
著述
編集墨跡
編集門弟
編集- 本多雖軒 – 多摩郡国分寺村(国分寺市)出身。嘉永4年(1851年)入門し、本田家に召仕として仕えたが、万延元年(1860年)2月7日破門を言い渡され、万延2年(1861年)3月23日離門した。明治6年(1873年)武蔵国分寺最勝学校教師[13]。
- 青木省庵 – 多摩郡相原村(町田市)出身。万延元年(1860年)入門。明治4年(1871年)西洋医となり、大学東校で種痘等の活動を行った[14]。
- 山口与吉 – 多摩郡豊田村(日野市)出身[14]。
- 長沼周精 - 津久井郡与瀬村(相模原市緑区)出身[14]。
- 福田卯斎 – 常陸国土浦藩医。安政元年(1854年)入門。安政6年(1859年)離門し、長崎でボードウィンに西洋医学を学んだ[14]。
交友
編集本田家
編集本田家は下谷保村随一の地主で、安政3年(1856年)時点で下谷保村の村高558石1斗4升2合のうち15%以上の86石を有したほか[17]、弘化3年(1846年)時点で下谷保村に27人、上谷保村に5人、青柳村に1人の小作人を持ち、小作地の合計は12町5反3畝10歩余に及んだ[18]。幕府の奨励する菜種や谷保の名産茄子を栽培し、近隣の宿場に売りに出していた[19]。
本田家住宅は国立市谷保5122番地に現存し、主屋・薬医門は国の登録有形文化財[20]。
先祖
編集- 本田定経 – 上野国白井(渋川市白井)に住み、天正年間越後国鮫ヶ尾城で戦死した[21]。
- 本田源兵衛定寛(定弘) - 武蔵国川越に移り、調教師・馬医を務めた[21]。
- 本田源兵衛定直[21]
- 本田定之 - 寛永年間谷保村に移り、江戸幕府厩舎に務めた[21]。
- 本田文左衛門定保 – 広島藩浅野家に仕えた[21]。
- 本田市三郎重礼 – 石田新田土方家から養子に入った[21]。
- 本田源之丞定庸 – 下谷保村関家から養子に入った[21]。
- 本田源太郎定雄[21]
- 本田孫三郎定綏(随庵、宝暦11年(1761年) - 天保5年(1834年)) - 大観堂と号し、医業を起こした[21]。
- 本田孫三郎定价(昂斎、寛政7年(1795年) - 天保4年(1833年)) - 文化12年(1815年)市河米庵に書、また野村瓜州・菊池五山に漢詩を学んだ[21]。
家族
編集- 実父:本田郡司 – 貫井村(小金井市)新屋本田家[21]。
- 実母:とき – 本田随庵娘[21]。
- 養父:本田昂斎
- 養母:きん – 石田村(日野市)土方家娘[21]。
- 妻:ぎん – 本田昂斎娘[21]。
このほか召仕・下女・下男を複数人抱え、家事・農事に従事させていた[19]。
脚注
編集- ^ a b c 菅野 2003, pp. 52–53.
- ^ 菅野 2003, pp. 55–63.
- ^ 菅野 2003, p. 68.
- ^ 菅野 2003, pp. 69–72.
- ^ 菅野 2003, pp. 43–45.
- ^ 菅野 2003, pp. 46–48.
- ^ 菅野 2003, p. 87.
- ^ 菅野 2003, pp. 97.
- ^ a b c d e 菅野 2003, pp. 51–52.
- ^ 菅野 2003, pp. 69–70.
- ^ 国立市教育委員会生涯学習課社会教育・体育担当(社会教育・文化財担当) (2016年12月19日). “有形民俗(4)”. 国立市. 2017年6月18日閲覧。
- ^ “白山神社由来”. 落合白山神社. 2017年6月18日閲覧。
- ^ 菅野 2003, pp. 76–81.
- ^ a b c d 菅野 2003, pp. 73–74.
- ^ a b c d e 菅野 2003, pp. 90–94.
- ^ 菅野 2003, pp. 83–84.
- ^ 菅野 2003, pp. 17–18.
- ^ 菅野 2003, p. 35.
- ^ a b 菅野 2003, pp. 28–30.
- ^ 国立市教育委員会生涯学習課社会教育・体育担当(社会教育・文化財担当) (2017年1月14日). “国登録文化財(6)”. 国立市. 2017年6月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 菅野 2003, pp. 19–22.