日本傷痍軍人会(にほんしょういぐんじんかい)とは、日本における傷痍軍人利益団体である。略称は日傷(にっしょう)。1952年11月に設立され、2013年11月まで活動した。東京都に本部を置き、全国47都道府県に支部を置いて活動していた。主に日中戦争太平洋戦争戦傷を負った旧日本軍の元軍人で構成されている。

日本傷痍軍人会
略称 日傷(にっしょう)
設立 1952年11月
解散 2013年11月
種類 傷痍軍人の当事者団体
障害者団体
法的地位 財団法人
目的 本会は傷痍軍人等の生活の援護と親睦福祉増進を図ると共に品性の涵養と道義の昂揚に務め、もって公共の福祉の向上及び増進に貢献し日本の繁栄と世界平和に寄与することを目的とする(財団法人日本傷痍軍人会 寄附行為 第2条 目的)。
本部 東京都千代田区九段南1-5-13 しょうけい館
会長 奥野義章(解散時の会長)
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解散時まで東京都千代田区九段南しょうけい館を管理していた。日本傷痍軍人会の解散後もしょうけい館は管理主体を変えて現在も存続している。機関紙は月刊紙「日傷月刊」であった[1]。前身は大日本傷痍軍人会[2]

概要

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1936年(昭和11年)12月2日、大日本傷痍軍人会が発足したが内務省陸軍省海軍省が主導する組織であり[3]第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)には解散を余儀なくされた。その後、しばらくは傷痍軍人に係る組織は設立できない状態が続いた。 1956年(昭和31年)になり、ようやく日本傷痍軍人会が発足して、傷痍軍人の処遇改善を掲げて活動を開始。会員の相互援助や生活相談を行ったり、前述の傷痍軍人の資料館のしょうけい館を運営していた。政治的には自由民主党を支持していた。

1955年には35万人だった会員は2012年には高齢化が進んで5100人まで減少した。会員の平均年齢も2012年には92歳となり、組織活動が不可能になって2013年11月に解散した。2013年10月に日本傷痍軍人会が行った最後の式典は渋谷区明治神宮で行われ、平成時代天皇皇后の夫妻と首相安倍晋三も参列した[4]

一部の地方組織は独自の活動を続けたが、最後まで活動を続けた長崎県の長崎県傷痍軍人会も2019年3月に高齢化と会員数減少を受けて解散している[5]

出典[6][7]

沿革

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  • 1952年11月 - 任意団体として設立。
  • 1955年2月 - 財団法人格を取得。
  • 2013年11月 - 日本傷痍軍人会の解散。地方組織の一部は活動を続行。
  • 2019年3月 - 地方組織として最後まで存続して活動を続けた長崎県傷痍軍人会が解散した。

書籍

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  • 日本傷痍軍人会十五年史 戦傷病者会館 1967年1月[8]

脚注

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  1. ^ しょうけい館年報 平成24年度(第7号)
  2. ^ 略称は大日傷(だいにっしょう)。1936年に結成され、敗戦時まで活動した。広報誌「みくにの華」を発行していた。
  3. ^ 九段・軍人会館で発会式を挙行『大阪毎日新聞』昭和11年12月3日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p352 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ “天皇・皇后両陛下も出席 日本傷痍軍人会最後の式典”. テレビ朝日. ANNニュース. (2013年10月3日). https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000013460.html 2022年11月2日閲覧。 
  5. ^ “県傷痍軍人会が今春解散 高齢化と会員減少 「戦後の苦しみ忘れないで」”. 長崎新聞. 長崎新聞社公式サイト. (2019年8月15日). https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000013460.html 2022年11月2日閲覧。 
  6. ^ “日本傷痍軍人会、13年11月に解散 会員高齢化で活動困難”. 日本経済新聞. 日経電子版. (2012年9月8日). https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0802C_Y2A900C1CR8000/ 2022年11月2日閲覧。 
  7. ^ “(財)日本傷痍軍人会 資料一覧 <国からの補助金・委託費等交付額(平成23年度決算ベース)>”. 厚生労働省. 厚生労働省公式サイト. (2012年4月). https://www.mhlw.go.jp/general/seido/hojin/engo03/ 2022年11月2日閲覧。 
  8. ^ 国立国会図書館サーチ 日本傷痍軍人会十五年史

関連項目

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外部リンク

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