日本建築史
日本建築史(にほんけんちくし)では、日本列島における建築の成り立ちや歴史の流れを詳しく記述する。住宅については日本の住宅、神社は神社建築を参照。
日本建築の発展史を全体的に見て、先史時代の建物は素朴でシンプルなデザインとなっていた。飛鳥時代から江戸時代にかけての伝統建築は、中国大陸からの影響を受けながらも日本独自の工夫が加えられ、繊細風雅さと豪華絢爛さを兼ね備えたものが多かった[1][2][3][4][5]。明治時代から昭和時代前期にかけての近代建築は、西洋からさまざまな様式が取り入れたが、本物の欧米の近代建築に比べて、その色使いはより鮮やかのが特徴であった[6][7][8][9]。1930年代にはモダニズム建築が浸透していった[10]。
特徴
編集位置付け
編集日本建築はほかの東アジア諸国と同じように中国建築から強い影響を受け、近代以降は西欧(とくにオランダ・フランス・イギリスの3か国)の影響を受けていたが、日本人は意図的に外来のものを日本化し、日本の風土・文化に合わせて新たの建築様式を創造してきた。「小屋組や破風を最大限に活用する日本建築」は「柱や梁で建物を支える中国建築」や「煉瓦や石壁で建物を固める西洋建築」とは対照的な存在である。20世紀初頭のモダニズムの時代以降、和風建築の理念は西洋のモダニズム建築に通じるという見方が出て、欧米から大きな注目を集めるようになった。
1954年、ドイツ人の建築家ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)が日本を訪れたさいに、西ドイツの初代首相コンラート・アデナウアー(Konrad Adenauer)へ宛てて次のように書いている:
和風建築は私が知る中で、もっとも自然を尊重し、もっとも環境に優しい建物だと思います[11]。(ドイツ語の原文:Das japanische Haus ist das modernste und beste, das ich kenne und wirklich vorfabriziert.)
扱う範囲
編集太平洋戦争の前までは、「日本建築」という言葉の定義は「日本列島上の古代から中世までの神社・寺院建築」に限られていた。しかし、第二次世界大戦後には「日本全時代の民家、江戸時代の社寺、沖縄県の琉球王国宮殿、明治や大正の西洋風建築」なども次第に対象となっており、日本建築の定義も広がっていた。日本人建築家が旧植民地に残した和風や洋風建築、とくに日本と友好関係を築いている台湾で保存されたもの(台湾総督府庁舎や高雄駅など)が[12][13][14]、研究対象ともなっている。さらに欧米人は日本のアニメや漫画・ゲームの影響で、日本人にとって身近な町の建物、例えば「道端の祠や廃墟になった仏龕」など、以前で研究対象になれなっかたものをも日本の民俗文化として再評価させている。
学問としての始まり
編集平安時代から江戸時代にかけて和風建築に関する「有職故実的な習慣」は存在していたが、それは西洋のように「科学的な根拠に基づいた学問」ではなく、公家や武家の見栄を張るためのモノでした[15]。江戸時代末期の日本には、建築人材を養成する学校や機関が存在しなく、建築史の確立が西洋よりかなり遅れていた。明治初期の日本人建築家である辰野金吾がロンドンに留学した際に、イギリス人の同級生から「和風建築にはどのような歴史があるのか」と尋ねられて、何も答えできず、「日本建築史への研究が絶対必要だ」と痛感した[15]。
辰野の教え子である伊東忠太が「法隆寺は日本最古の建築であるかどうか」を学問的に論じ、これにより日本建築史の第一歩が記された[16]。明治33年、1900年パリ万博に際して岡倉覚三を中心に『稿本・日本帝国の美術の略史』が刊行された[17]。帝室博物館の建築部門を担当した伊東忠太は「岡倉の美術史区分」から大きな影響を受けていて、日本建築史の大枠を築いた[18]。そのとき、日本人が「建築」という造語を作られ、同じ漢字を使う国清王朝へ逆輸出されていた[19]。明治後期から大正時代まで、日本列島上に存在するすべての建物の様式論や『六国史』などの文献研究はもとより、遺跡調査や発掘検証などの考古学の知識も取り入れられるようになって、日本建築史が学問としての立場を深化させていた[15]。
昭和時代になると、国家神道寄りの価値観を全日本の国民たちに植え付けるため、廃仏毀釈という運動を行い、多くの仏教寺院は深刻な打撃を受けた。これが逆に建築史研究の助力となり、建築家の関野貞は日本の仏教建築を保護しようと、奈良と京都に位置する仏教建築やその建造年代をまとめた書物に作成し、大量発行をしていた[20]。また、日本の建築家と歴史家の間で法隆寺について意見不一致が発生された。歴史家の意見に従い、法隆寺を建成当初の中国の唐王朝の様式にできるだけ近づけて保存するか、それとも建築家の意見に従い、純日本風に変えて現代の工法で修繕するかについて論争が起こり、最終的に「法隆寺再建非再建論争」の案となった[21]。
歴史
編集原始~先史時代
編集床のない「竪穴建物」
編集現在の考古学・建築史では大きく床の位置(竪穴建物や高床建物)、壁の有無(伏屋式、壁立式)、構造(掘立柱式、棟持柱式)によって分類される。現存する原始~先史時代の建築物は存在しないものの、建築部材が出土するようになり、遺構の発掘調査成果に基づいた復元建築物が存在している。
縄文時代の遺跡である三内丸山遺跡などからは高度な建築技術が存在していたことが窺える。竪穴建物の内部にも既に炉や、穀物の貯蔵穴などの設備が検出されることが多く、定住用住居などの建物としての形式が見えるようになる。近年の発掘調査成果により、弥生時代に渡来人がもたらしたと信じられていた建築技術や様式が縄文時代から存在していたことが明らかになった。
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三内丸山遺跡:大型竪穴建物
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三内丸山遺跡:高床建物
床のある「高床建物」
編集かつては、床を持つ建築物が普及するのは稲作とともに弥生時代からだと考えられ、狩猟より農耕が一般的になるにつれ床を持つ建物が増えてきたと考えられていた。後に高床建築は、伊勢の神宮の神明造りや出雲大社の大社造り、住吉大社の住吉造りなどの神社建築様式に発展していく。20世紀の初頭のドイツの建築家ブルーノタウトは、伊勢の神宮を訪れたときに、その簡素さと究極の美しさにショックを受けて「雷に打たれたようだ」と表現した。
弥生時代以後には、大規模な定住の状況が鮮明になっていると言える。古墳時代に入ると農耕技術の進歩や共同体の拡大に伴い、集落そのものが巨大化するのに合わせて、建築物も大きくなる。各地の有力者が自らの住居を作る際、複数の居室を持つ大規模建築物が見られ、これらは豪族居館と呼ばれる。群馬県三ツ寺遺跡などでその遺構が発掘された。また、祭司等の宗教行事や貯蔵施設など、集落の中心となる建築物が判りやすくなった。
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吉野ヶ里遺跡の遠景
古代建築
編集-
法隆寺 西院伽藍
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東大寺法華堂(三月堂)
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平等院鳳凰堂
- 飛鳥様式
- 白鳳様式
- 薬師寺東塔
- 奈良時代
- 平安時代前期
- 平安時代後期
飛鳥・奈良時代は、中国の仏教建築の様式と技術を朝鮮半島を経由して取り入れた時期である。遣隋使・遣唐使の時代になると、中国の唐王朝の建築様式から強い影響を受け、礎石の上に柱を立てて柱を朱色に塗るという大陸風のデザインが導入されるようになった[22]。
仏教公伝(538年)以降、日本でも寺院建築が建てられるようになった。記録では577年に仏工・造寺工が百済から招かれた。588年から609年にかけて蘇我氏が築いた飛鳥寺(奈良県高市郡明日香村。法興寺、元興寺とも)や593年に聖徳太子創建とされる摂津国の四天王寺(大阪府大阪市天王寺区。天王寺)が、日本最古の伽藍とされる(いずれも当初の建物は現存しない)。現存するものとしては法隆寺の西院伽藍、法起寺三重塔(ともに奈良県生駒郡斑鳩町)が最古のものである。法隆寺西院伽藍は、かつては聖徳太子の時代の建築と信じられていたが、近代における研究の進展の結果、670年の火災以後、7世紀末から8世紀初めの再建と考えられている。法起寺三重塔は8世紀初めの建築である。当時の伽藍配置や技法には、百済の寺院との共通性が指摘されている。 一般に奈良時代の建物の基礎構法は伝統的な掘立式だった。平城宮の発掘調査によって検出された800棟の建物のうち、その大多数が掘立式の基礎だったことから、70年に及ぶ奈良時代の間に平均して4回の基礎の腐朽による建て替えが恒常的に行われたと考えられている[22]。
平安時代、国風文化の時代になると建築様式も日本化し、柱を細く、天井を低めにした穏やかな空間が好まれるようになった。平安時代以降には日本独自の形態として発展し、この建築様式を和様と呼ぶ。
10世紀中期以降、朝廷や寺社の行事や儀式は次第に夜を中心にして行われるようになっていった。それは同時に夜間における灯火の利用を増大させて度重なる火災の原因となり、結果的には大規模な造営が行われる一因となった。このことは租庸調による税収の衰退とともに中央・地方の財政の悪化をもたらし、国宛や成功などの新たな財政制度を生み出すとともに、建築の分野では修理職や木工寮などの担当官司や東大寺などの大寺院を中心として工匠組織内部における技術や経験の師資相承が行われ、後世における大工・職人の徒弟制度の原点となった。また、日本全国から造営に動員された工匠たちも中央の優れた建築技術を持ち帰ってそれぞれの地方の建築で生かし、さらに地方の国司たちも中央に送る瓦などの生産能力を高めていくなど、中世以後の建築の発展につながることになった。だが、一方でこうした相次ぐ建築は木材の伐採に伴う山林(杣)の荒廃などの環境破壊を招き、次の鎌倉時代前半期に新たな自然災害や飢饉や治安悪化などの社会問題を生み起こす要因になったとする指摘もある[23]。
中世建築
編集- 鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、中国との交易が活発になったことで、再び中国の建築様式が伝えられた。まず入ってきたのは東大寺再興の際に用いられた様式である(大仏様あるいは天竺様)。
天平時代に建設された東大寺大仏殿は平安時代末期の源平の争乱の中、焼失した。重源は幾多の困難を克服して大仏を鋳造し、1185年、開眼供養。1195年、大仏殿を再建。1203年に総供養を行った(東大寺盧舎那仏像を参照)。
重源が再建した大仏殿などの建築様式は非常に独特なもので、当時の中国(宋)の福建省周辺の建築様式に通じるといわれている。
その建築様式は合理的な構造、豪放な意匠で大仏殿にはふさわしいものであったが、日本人の好む穏やかな空間とは相容れない面もあり、重源が死去すると大仏様も衰えた。大仏殿再建に関わった職人は各地へ移り、大仏様の影響を受けた和様も生まれ、これを折衷様と呼ぶ。
その後、禅僧が活発に往来し、中国の寺院建築様式が伝えられた。これは禅宗寺院の仏堂に多く用いられている(禅宗様あるいは唐様)。
また、中世には出家した僧や隠遁者が人里離れて住む簡素な建物である草庵が出現し、鴨長明『方丈記』や絵巻物などに描かれている。平安後期・鎌倉期には明恵や一遍、西行、日蓮ら宗教者が草庵を拠点に活動を行った。
近世建築
編集文化史上、室町幕府が滅亡した1573年から、豊臣家が滅亡した1615年までを桃山時代とすることが多い。天下統一の時期にふさわしく、城郭建築が発達し権力のシンボル的な天守が築かれ、御殿は華麗な障壁画で装飾された。また、室町時代に始まった茶の湯は千利休によって大成され、茶室というジャンルが生まれた。
- 江戸時代
江戸時代は全般に庶民文化の栄えた時代であるが、建築でも世俗化の傾向が顕著に見られる。茶室を住宅に取り入れた数寄屋造りや、都市の娯楽施設である劇場建築・遊廓の建築などがその例である。また、民家も一部は書院造の要素も取り入れ、次第に発展していった。
寺院建築では、善光寺・浅草寺・方広寺など大多数の信者を収容する大規模な本堂が造られるようになった。豊臣秀吉・豊臣秀頼父子の造立した、初代・2代目方広寺大仏殿(京の大仏)は、文献記録によれば、平面規模が間口(正面幅) 南北45間(約88m)、奥行 東西27間(約55m)もあった。この寸法は考古学的知見からも正しいと見なされている[25]。初代大仏殿は失火のため、2代目大仏殿は、寛政10年(1798年)に落雷による火災のため焼失してしまった。なお現存の東大寺大仏殿の平面規模は、間口(正面幅)約57.5m、奥行約50.5mであるので、初代・2代目方広寺大仏殿の方が平面規模で上回っていた。
近世建築関連人物一覧:
近代建築
編集※年表は、日本近代建築史を参照。
- 西洋館・異人館 - 北野町山本通、銀座煉瓦街など
- 擬洋風建築 - 旧開智学校、龍谷大学講堂、白雲館など
- 建築家の誕生 - ジョサイア・コンドル、辰野金吾など
- 歴史主義建築
- 分離派建築会
- モダニズム建築
- 帝冠様式
- 日本植民地様式
幕末に外国人居留地が開かれると、外国人の住居、商館、教会などが建てられるようになった。グラバー邸は長崎の高台に築かれ、グラバーの指示に従って日本人が建設したものだが、来日した外国人技師によるものも見られるようになった。これら居留地の建築に刺激を受けた棟梁たちが明治初期にかけて各地に見よう見まねの洋館を建てた(擬洋風建築)。
明治初頭、日本政府は近代化に必要な都市を築くため、西洋建築の技術を得ようと躍起になっていた。お雇い外国人として、イギリスのウォートルスやコンドルが招かれた。コンドルは工部大学校で日本人建築家の育成に努め、「日本建築界の父」ともいわれる。教え子の第1期生が辰野金吾である。
政府による官庁集中計画が立てられると、専門家育成が必要になり、ヨーロッパの中でも日本がめざすべき先進国と考えられたドイツ政府に指導的人物を打診した。ヘルマン・エンデ(Hermann Ende)とヴィルヘルム・ベックマン(Wilhelm Boeckmann)の共同設計事務所(エンデ・ベックマン事務所)が担当することになり、エンデとベックマンらが来日した。彼らは近代国家建設に要する技術習得のために日本人のドイツ留学を時の日本政府に進言し、政府は建築技師として妻木頼黄・渡辺譲・河合浩蔵の3人、石工・大工・人造石左官・煉瓦職・ペンキ職・屋根職・石膏職の高等職人17人で構成された総勢20人の青年をドイツに留学・派遣した。3年の留学の後、知識と技術を得た彼らのうち数人は後に現東京工業大学の第1期卒業生となり、ある者は美術家となるが、彼らの多くは日本国内の建築分野で活躍した。ほか特記事項として、ロンドン大学に留学した桜井小太郎が1892年(明治25年)に日本人初の英国公認建築家の資格を得ている。
日本において建築とは、まず近代化のために西洋から学ぶべき技術として捉えられ、芸術・美術と捉える意識は薄くなった。また濃尾地震や関東大震災で煉瓦造建築に大きな被害が生じたことから、日本独自の耐震構造技術への関心が高まった。こうして、建築はもっぱら工学的な学問と考えられる風潮が強まった。この意識は今日まで続いている。
一方、大正中期の1920年に日本初の建築デザイン運動として、堀口捨己・山田守・石本喜久治・森田慶一・瀧澤眞弓等の東京帝国大学建築学科出身者が集まり分離派建築会の活動が始まった。
また、20世紀前半には列強の仲間入りを果たした日本は、その海外進出に伴い、日本植民地様式(Japanese Colonial architecture)とも呼ばれる建築を手掛けるようになった。[26]
現代建築
編集戦争で大きな打撃を受けた建築界は、戦後復興、高度経済成長の中で活躍の場を見出した。鉄筋コンクリートの使用が一般的になり、各地にモダニズムの公共施設が建設された。モダニズムが目指したのは風土性やシンボル性の否定であり、デザインはインターナショナル・スタイルに切り替わった。地震の多いことが日本の課題の一つであったが、耐震構造技術が進み、かつては百尺(31m)に制限されていた規制も緩和され、超高層建築が建てられるようになった。丹下健三、槇文彦、安藤忠雄など世界的な評価を得る建築家も増え、日本の現代建築のレベルは上昇した。この間に意匠デザインと構造設計の分離分業が進んだ。
一方、都市の美観という発想は、大正・昭和初期の建築家の一部に見られたものの、戦時体制・戦後復興の中でほとんど影をひそめてしまった。伝統的な街並みや過去の優れた建造物の多くが戦災や経済発展の中で失われ、経済性・合理性優先の安上がりな建築が多くなり、スクラップアンドビルドが繰り返された。社会が豊かになっていくにつれ、建築のシンボル性について再び考慮がされるようになるが、平成期の不況によって再開発やデザイン重視の建築は思うように進まず、戦後初期の雑居ビルなどが老朽化したまま残された。
その結果生まれた日本の雑然とした町並みを肯定的に評価する意見もあるが、かつての日本にあった風土的な個性の多くが失われたことには反省の声も多く、重要伝統的建造物群保存地区の選定や景観法の制定など、美しい都市・国土への関心も高まった。
1995年の阪神淡路大震災ではコンクリート建築が次々と倒れ、建築関係者に衝撃を与えた。
日本建築史の研究者
編集- 天沼俊一 - 社寺建築の細部の変遷を詳細に研究した。
- 伊東忠太 - 日本建築史の第一歩を記した。
- 伊藤ていじ - 中世住居、民家を研究し、現代建築にデザインとして捉えることを提唱した。
- 稲垣榮三 - 神社の研究を進め、特に伊勢神宮と出雲大社の心御柱に注目する見方を提唱した。
- 太田博太郎 - 中世建築・民家など幅広く研究を進めた。
- 大河直躬
- 今和次郎
- 関野貞 - 建築史様式史を確立し、奈良・京都を中心に全国の古建築の調査を行い文化財保護に尽くした。
- 中村昌生 - 茶室や数奇屋の建築および研究を行う。
- 長谷川輝雄 - 四天王寺など失われた寺院建築の復元的考察を行った。
- 林徽因 - 飛鳥時代の日本建築と隋朝の中国建築の比較研究を行った。
- 藤井恵介
- 藤森照信 - 全国の近代建築を紹介して一般に認知を広め、研究対象を看板建築やアジアの近代建築にも広げた。
- 堀口捨己 - 茶室を思想的な背景のもとに考察した。
- 宮上茂隆 - 寺院や、城郭建築を建築史の技法を使って再現の研究を行う。
- 村松貞次郎 - 日本の近代建築を技術史的に研究した。
- 藤井恵介 - 日本の寺院建築の様式と空間について研究した。
脚注
編集- ^ Bussagli (1989), pp. 163–165
- ^ Template:Jaanus2
- ^ Sickman & Soper (1956), pp. 237–238
- ^ Bussagli (1989), p. 165
- ^ Itoh (1973), p. 21
- ^ Hiroshi Matsukuma (2005), “Remembering Modern Architecture – The 100 Selected Works Spotlighted by DOCOMOMO” (英語), 57 (Spring): 13–16, ISSN 1342-6478
- ^ Bognar (1995), pp. 12 & 13
- ^ Stewart (2002), p. 20
- ^ Stewart (2002), p. 27
- ^ 戦後・日本・モダンムーブメント | 戦後を譲りわたす——日本の「モダン・ムーブメント」建築史 岸佑 | web春秋 はるとあき
- ^ Manfred Speidel: Träume vom Anderen. Japanische Architektur mit europäischen Augen gesehen. – Einige Aspekte zur Rezeption zwischen 1900 und 1950. (Memento des Originals vom 2. 2月 2008 im Internet Archive) 情報 Der Archivlink wurde automatisch eingesetzt und noch nicht geprüft. Bitte prüfe Original- und Archivlink gemäß Anleitung und entferne dann diesen Hinweis. In: archimaera. Heft 1/2008.
- ^ Morohashi, Kaz (Winter 2015). “Museums in Japan”. e-magazine (Norwich,UK: Sainsbury Institute for the Study of Japanese Arts and Culture) 2018年8月9日閲覧。.
- ^ Yukiko Koga (28 November 2016). Inheritance of Loss: China, Japan, and the Political Economy of Redemption after Empire. University of Chicago Press. pp. 290–. ISBN 978-0-226-41227-6
- ^ Watanabe, Hiroshi (2001). The architecture of Tôkyô : an architectural history in 571 individual presentations. Edition Axel Menges. ISBN 978-3-930698-93-6 2017年7月17日閲覧。
- ^ a b c “日本建築史の始まり”. www.eonet.ne.jp. 2023年9月17日閲覧。
- ^ 米沢市役所. “米沢市役所”. 米沢市役所. 2023年9月17日閲覧。
- ^ 東京国立博物館 -トーハク-. “東京国立博物館”. www.tnm.jp. 2023年9月17日閲覧。
- ^ “例会報告”. 高山西ロータリークラブ. 2023年9月17日閲覧。
- ^ “「建築」と「建設」。それぞれの意味をおさらいしましょう! | CADカフェ”. CADカフェ. 2023年9月17日閲覧。
- ^ “Ouroboros”. umdb.um.u-tokyo.ac.jp. 2023年9月17日閲覧。
- ^ “100年前に科学的手法-法隆寺「非再建」を主張した平子鐸嶺”. www.bunka.pref.mie.lg.jp. 2023年9月17日閲覧。
- ^ a b 佐藤彰『崩壊について』 中央公論美術出版 2006年 ISBN 4805505273 pp.78-83.
- ^ 上島享「大規模造営の時代」『日本中世社会の形成と王権』(名古屋大学出版会、2010年) ISBN 978-4-8158-0635-4 P293-367(原論文発表は2006年))
- ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
- ^ 京都市埋蔵文化財研究所『法住寺殿跡・六波羅政庁跡・方広寺跡』2010年(2009-8)
- ^ 西澤泰彦著『日本の植民地建築―帝国に築かれたネットワーク』 (河出ブックス、2009年)