島津久逵
島津 久逵(しまづ ひさみち)は、江戸時代前期から中期にかけての薩摩藩士。知覧島津家(佐多氏)16代当主。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 慶安4年(1651年) |
死没 | 享保4年7月5日(1719年8月20日) |
改名 | 虎三郎(幼名)→伊勢貞朝(初名)→佐多久逵→島津久逵 |
別名 | 通称:市右衛門、内記、豊前、備前 |
戒名 | 浄光院殿玉峯全白居士 |
墓所 | 鹿児島県南九州市知覧町郡の島津墓地 |
主君 | 島津光久→綱貴→吉貴 |
藩 | 薩摩藩国老 |
氏族 | 島津氏→伊勢氏→佐多氏→知覧島津家 |
父母 |
父:島津光久 養父:伊勢貞衡、佐多久利 |
兄弟 |
綱久、久定、忠長、久逵、久理、久明、 入来院重矩、久房、ほか |
子 | 久基、久豪 |
生涯
編集慶安4年(1651年)、藩主・島津光久の五男として生まれる。初めは旗本伊勢貞衡の養子となり貞朝と名乗る。寛文6年(1666年)4月、将軍・徳川家綱に御目見する。寛文12年(1672年)、養父に実子・貞守が生まれたことにより実家に戻り、改めて佐多丹波久利の養子となる。知覧地頭職となり領主と兼任する。
延宝4年(1676年)、城代となる。延宝5年(1677年)、頴娃地頭職。延宝8年(1680年)、城代と国老を兼任し職田2000石を賜る。加世田地頭職となる。元禄6年(1693年)、藩主・島津綱貴の参勤に随行して、江戸に下り江戸城で将軍・徳川綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)、国老を免じられ城代に専任する。職田2000石はそのまま給された。
正徳元年(1711年)、藩主・島津吉貴より、島津姓を代々名乗ることを許された。享保3年(1718年)、隠居して次男の久豪に家督を譲る。光久、綱貴、吉貴の3代に城代として仕えた功績を賞されて、年100俵を給された。翌享保4年(1719年)7月5日死去、享年69。
参考文献
編集- 『知覧郷土史』