岡野 成明(おかの なりあきら、慶長13年(1608年) - 元禄7年10月10日1694年11月26日))は、旗本岡野氏の2代目。岡野房恒の長男[1][2]。通称は内蔵允、号は閑入[2]。妻は加藤正重の娘。子に岡野房勝岡野房明、娘(岡野貞明妻)、娘(筧正尹妻)がいる[2]

経歴

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岡野房恒と糟谷豊後守の娘の長男として生まれる[2]

元和5年(1619年)、12歳の時に徳川秀忠に初めて拝謁する[2]

寛永元年(1624年)に書院番に列し、蔵米300俵を賜る。同5年(1628年)、日光社参に供奉する。同10年(1633年)2月7日、200石を賜り、蔵米取から、常陸江戸崎500石を領する知行取りとなる。同13年(1636年)10月28日、進物役になる。同17年(1640年)11月20日、東海寺の別荘普請の奉行をつとめる。

慶安3年(1650年)10月28日、越川門の橋修復の奉行をつとめる[2]

明暦元年(1655年)に48歳で家督相続し、それまでの500石は父の隠居料となる。同年9月10日、御鉄砲頭になる。同年12月29日、布衣の着用を許される[2]

寛文7年(1667年)12月23日、盗賊追捕の任をうけたまわり、常陸、下野、上総など関東諸国に赴いた功により、時服や黄金を賜る。延宝8年(1680年)2月23日、職を辞して寄合となる[2]

天和2年(1682年)12月18日、致仕する。その際、隠居料として蔵米600俵を賜る[2]

元禄7年(1694年)10月10日、87歳で死去[1]

脚注

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  1. ^ a b 大津雄一・矢代和夫『北条五代記(日本合戦騒動叢書13)』勉誠社勉誠出版〉、1991年5月1日、233頁-274頁。
  2. ^ a b c d e f g h i 寛政重修諸家譜』第3輯 国民図書、705頁。

出典

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  • 大津雄一・矢代和夫『北条五代記(日本合戦騒動叢書13)』勉誠社勉誠出版〉、1991年5月1日、233頁-274頁。
  • 平井聖 監修・著『図説江戸〈2〉大名と旗本の暮らし』学研プラス、2001年6月1日、103頁-105頁。
  • 寛政重修諸家譜 第3輯』国民図書、1923年、705頁。