岡部長寛
岡部 長寛(おかべ ながひろ)は、江戸時代後期の大名。和泉国岸和田藩の第12代藩主。官位は正五位筑前守。岸和田藩岡部家13代。
岡部長寛肖像(泉光寺所蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
生誕 | 文化6年3月13日(1809年4月27日) |
死没 | 明治20年(1887年)2月3日 |
改名 | 第二郎(幼名)、長寛 |
墓所 | 千葉県野田市の海福寺 |
官位 | 従五位下、正五位筑前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜 |
藩 | 和泉岸和田藩主 |
氏族 | 岡部氏 |
父母 |
父:岡部長慎、母:側室 養父:岡部長貞 |
兄弟 | 長和、長寛、長発、池田定保正室、松浦曜正室、賀子ら |
妻 | 正室:於熊(岡部長貞の娘) |
子 |
内藤信美、長興、朝比奈長融、簾子、鎮姫、岡部長道室 養子:長職 |
生涯
編集第9代藩主・岡部長慎の次男として岸和田城にて誕生。幼名は第二郎。母は側室。10代藩主・長和の弟で、11代藩主・長発の兄に当たる。
長兄・長和がいたため、本家の家督を継ぐことはできず、天保2年(1831年)12月27日に分家の旗本・岡部長貞の養嗣子となる。後に小姓となる。天保9年12月16日、従五位下・筑前守に叙任する。しかし、安政2年(1855年)2月25日、本家の家督を継いでいた弟の長発が早世し、長発の子である長職も幼少だったため、本家の家督を継ぐこととなった。
幕末の動乱の中で、藩政においては軍政改革や藩校・講習館の増築を行なって修武館と改名するなどしている。当初佐幕派として行動していたが、戊辰戦争が起こると新政府側に与した。慶応4年(1868年)4月7日、新政府に献金を申し出る。同年6月、老臣岡部正路の処罰をめぐる藩内の対立により、新政府が調査に乗り出す。同年9月5日、家中の取締りを問題とされて、新政府から差控を命じられる。同年9月20日、隠居を願い出る。明治元年12月28日(1869年)、隠居を許可されて、養子の長職に家督を譲った。
系譜
編集脚注
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