山名義路
日本の江戸時代後期~昭和時代前期の知藩事・男爵・政治家・陸軍軍人。但馬村岡藩初代藩主山名義済長男で、村岡藩2代藩主。正三位
山名 義路(やまな よしみち)は、但馬国村岡藩の第2代(最後)の藩主(知藩事)。官位は従五位下・因幡守、のち正三位。男爵。陸軍軍人。
山名義路 | |
時代 | 江戸時代後期 - 昭和時代 |
生誕 | 万延元年11月4日(1860年12月15日) |
死没 | 昭和15年(1940年)11月22日 |
墓所 | 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の御殿山御廟 |
官位 | 従五位下・因幡守、正三位 |
主君 | 明治天皇→大正天皇 |
藩 | 但馬村岡藩主 |
氏族 | 山名氏 |
父母 | 父:山名義済、母:堀直格の娘・縁子 |
兄弟 | 義路、快子、忻子 |
妻 | 佐藤信有の娘・トヨ |
子 | 義鶴 |
経歴
編集万延元年(1860年)11月4日、初代藩主・山名義済の嫡男として生まれる。明治4年(1871年)2月11日、父の隠居に伴って家督相続し知藩事となる。同年7月、廃藩置県で免官となり、翌月、東京へ転居する。明治17年(1884年)、華族令によって男爵に叙せられた。
維新後は、陸軍教導団歩兵科を卒業し広島鎮台陸軍歩兵伍長となる。さらに陸軍士官学校を1887年7月21日に卒業(旧9期)して、同日付で歩兵少尉に任官し、翌日に歩兵第5連隊小隊長となる[1]。のち輜重兵少佐に昇進。第4旅管軍法会議判士や輜重兵第3大隊中隊長、第1師団衛生予備廠長などを歴任する。
1911年7月10日、貴族院男爵議員に就任し[2][3]、1916年7月11日に辞任した[4]。昭和15年(1940年)11月22日、81歳で死去。
栄典
編集- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[5]
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』1990年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (村岡)山名家初代 1884年 - 1940年 |
次代 山名義鶴 |