山名義済
日本の江戸時代後期~明治時代初期の武士・知藩事。交代寄合旗本山名義問の子で、但馬村岡領11代当主→村岡藩初代藩主(1万1000石)。従五位下因幡守
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保7年2月21日(1836年4月6日) |
死没 | 明治4年2月20日(1871年4月9日) |
戒名 | 普門院殿白菅義問大居士 |
墓所 | 兵庫県美方郡香美町村岡区村岡の御殿山御廟 |
官位 | 従五位下・因幡守 |
幕府 | 江戸幕府交代寄合 |
主君 | 徳川家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 但馬村岡藩主 |
氏族 | 山名氏 |
父母 | 父:山名義問、母:堀直寛の娘・寛子 |
兄弟 | 義済、喬子 |
妻 | 堀直格の娘・縁子 |
子 | 義路、快子、忻子 |
略歴
編集安政6年(1859年)7月28日、父山名義問の隠居により交代寄合である山名家の家督を継ぐ。幕末期の動乱の中で、義済は早くから尊王論者として官軍側に協力していたため、慶応4年(1868年)6月20日、かねてから請願していた維新立藩(新規取立て)が認められて所領を1万1,000石とされ、翌明治2年(1869年)には藩主に取り立てられて諸侯に列し、ここに村岡藩が成立した。明治3年(1870年)6月23日には知藩事となるが、翌明治4年(1871年)2月11日、長男の義路に家督を譲って隠居した。