寺内萬治郎
1890-1964, 洋画家。浦和画家の一人。
寺内 萬治郎(寺内 万治郎、てらうち まんじろう、1890年(明治23年)11月25日 - 1964年(昭和39年)12月14日)は、日本の画家(洋画家)。浦和画家の一人として知られる[1]。日本芸術院会員。
人物
編集大阪府生まれ。裸婦図で知られ「裸婦の寺内」「裸婦を描く聖者」「デッサンの神様」などと称されることも多い[2]。1934年に埼玉県浦和市に転居し、以後浦和画家の著名な人物として取り上げられている。弟子も多く、寺内と門下生で武蔵野会(のち与野会)を結成していた。
略歴
編集- 1890年(明治23年)11月25日 - 大阪市南区難波新地に父克巳、母つるの三男として出生。
- 中学3年のとき松原三五郎の天彩画塾に入り水彩画を学ぶ。のち白馬会洋画研究所でも学ぶ。
- 1911年(明治44年) - 東京美術学校西洋画科入学。
- 1916年(大正5年) - 東京美術学校卒業。黒田清輝に師事する。
- 1922年 - 曾宮一念らと金塔社結成
- 1925年(大正14年) - 第6回帝展で「裸婦」を出品、特選。
- 1926年(大正15年) - 石榴社を結成。
- 1927年(昭和2年) - 帝展特選。
- 1929年(昭和4年) - 光風会会員。
- 1933年(昭和8年) - 帝展審査員 [3]。
- 1934年(昭和9年) - 浦和市に住居とアトリエを新築し移住。
- 1942年(昭和17年) - 陸軍省派遣画家としてフィリピン、セレベス等に派遣。「マニラを望む」などを制作。
- 1943年(昭和18年) - 1950年まで東京美術学校講師。
- 1944年(昭和19年) - 門下生21名(須田剋太、里見明正、藤本東一良、岡田又三郎、渡辺武夫など)と武蔵野会を結成。
- 1947年(昭和22年) - 蕨町に蕨画塾が開設され、講師を務める。
- 1950年(昭和25年) - 日展運営会参事。
- 1951年(昭和26年) - 「横臥裸婦」で日本芸術院賞受賞[4]。
- 1955年(昭和30年) - 武蔵野会を解散し、新たに門下生約60人(金子徳衛、寺島龍一、田中実、渡辺武夫など)と親睦会の与野会を結成。
- 1958年(昭和33年) - 日展評議員。
- 1960年(昭和35年) - 日本芸術院会員。
- 1964年(昭和39年)12月14日 - 死去。
作品
編集- 「横臥裸婦」(東京国立美術館蔵)
画集
編集- 「寺内万治郎画集 第1-5輯」 美術工芸社 1934-1940