大原浄貞
大原 浄貞(おおはら の きよさだ、生没年不詳)は、奈良時代の貴族。初名は都良麻呂(つらまろ)で、名は清貞とも記される。氏は一時期浄原(清原)(きよみはら)と称した。官位は従五位下・信濃守。
経歴
編集天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終了後に、大原都良麻呂から浄原浄貞に改姓改名した(この時の官位は中務少丞正六位上)。天平神護2年(766年)田口安麻呂・息長道足・粟田鷹守・輔治野清麻呂(のち和気清麻呂)・藤原種継とともに従五位下に叙爵する。神護景雲2年(768年)宮内省次官が両方交代し、大輔に榎井小祖が、少輔に浄貞が補せられた。
光仁朝に入ると、宝亀2年(771年)摂津亮、宝亀3年(772年)周防守、宝亀5年(774年)摂津亮(摂津大夫は掃守王)と地方官を歴任する。またこの間の宝亀3年(772年)には大原真人の氏姓に復しているが、これには称徳天皇による氏名変更を是正する目的があったという[1]。
宝亀7年(776年)右衛士府の大幅な体制変更があり、右衛士督に藤原小黒麻呂が、右衛士佐に巨勢池長が、右衛士員外佐に浄貞がそれぞれ任ぜられている。宝亀9年(778年)2月に石川望足の後任の信濃守に補せられ再び地方官に転じるが、早くも同年8月には大伴不破麻呂に交替した。
官歴
編集注記のないものは『続日本紀』による。
脚注
編集- ^ 岩波書店『続日本紀4』p374注20