掃守王
経歴
編集孝謙朝末の天平勝宝9歳(757年)無位から従五位下に直叙されていることから三世王と想定される。
天平宝字8年(764年) 正月に典薬頭に任ぜられる。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱での動静は伝わらないが、罰せられたあるいは昇進した形跡がないことから、乱に関与せず静観したか。のち、大炊頭を務め、神護景雲3年(769年)全国の諸社に神服を奉った際、掃守王は藤原雄田麻呂とともに伊勢太神宮使を務めた[1]。
宝亀元年(770年)10月に光仁天皇の即位に伴い従五位上に昇叙され、12月には大蔵大輔に任ぜられる。光仁朝では宝亀4年(773年)正五位下、宝亀7年(776年)正五位上、宝亀9年(778年)従四位下と順調に昇進する傍ら、宮内大輔・摂津大輔を歴任した。
官歴
編集『続日本紀』による。