南部光行
南部 光行(なんぶ みつゆき)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての武将。贈従三位。南部氏の始祖。
南部光行像 | |
時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
生誕 | 永万元年(1165年) |
死没 | 嘉禎2年3月18日(1236年4月25日) |
別名 | 信濃三郎、南部三郎(通称) |
墓所 | 岩手県盛岡市北山の聖寿禅寺 |
官位 | 贈従三位 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝→頼家→実朝→藤原頼経 |
氏族 | 加賀美氏→南部氏 |
父母 | 加賀美遠光、杉本義宗娘 |
兄弟 |
秋山光朝、小笠原長清、光行、 加賀美光経、於曽経行、大弐局 |
子 |
一戸行朝、実光、実長、七戸朝清、 四戸宗清、九戸行連 |
略歴
編集治承4年(1180年)、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられた。このときに南部姓を称したという[1]。建久元年(1190年)には頼朝に従って上洛し、その後自身は鎌倉に在住した。
また、『吾妻鏡』同年6月9日条に拠れば源頼朝の鶴岡八幡宮への御塔供養に際して「信濃三郎光行」が先陣随兵を務めておりこの頃は「信濃」を名字としていたが、『吾妻鏡』建久6年(1195年)5月20日条の源頼朝天王寺参詣に際には南部姓を称しており、この記事が下限となっている。
死没年には建保3年(1215年)11月21日、嘉禎2年(1236年)3月18日など様々な説があるが、嘉禎4年(1238年)2月に4代将軍・藤原頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は1236年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。死後、従三位を贈られた。
六人の息子がおり、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖となった。
糠部拝領に関する研究
編集文治5年(1189年)、奥州合戦で戦功を挙げ、陸奥国糠部五郡(二戸・三戸・九戸・七戸・北)を与えられた(盛岡侯南部氏系図)[2][1]。現在の青森県八戸市に上陸し、現在の同県三戸郡南部町相内地区に宿をとり、その後、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いたという。
上記伝承にある糠部五郡は糠部郡、岩手郡、閉伊郡、鹿角郡、津軽郡 (陸奥国)のことだとされているが、これらは後の16世紀半ば南部氏領の最大版図とほぼ同域であり、豊臣政権から領地安堵してもらうことと津軽地方を押領している大浦(津軽)為信が惣無事令に違反する逆徒と訴えていることについて、歴史的にも正当性があるように南部家伝を捏造したと考えられている。
捏造であることを示す資料として、建治元年(1275年)の京都六条八幡宮(若宮八幡宮・京都市東山区)造営の記録が存在する。同資料は全国の御家人から徴収した造営料が記されており、甲斐国の項目には「南部三郎入道(光行)跡」とあるのに対し、陸奥国の項目には南部氏の名が記されていない。そのためこの時期、南部氏は陸奥国に領地を持っていなかったとされる[3]。
確実な資料による限り、南部氏と奥州の関わりがみえてくるのは鎌倉時代末期とされる[3]。
系図
編集源頼義 ┃ 源義光 ┃ 源義清 ┃ 源清光 ┏━━━━━━━━━━┫ 武田信義 加賀美遠光━━━┳━━━和田義盛の姉妹 ┃ ┃ ┃ ┏━━━━╋━━━━┳━━━━┓ 一条忠頼 秋山光朝 小笠原長清 南部光行 大弐局 ┃ ┏━━━━━╋━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓ 行朝 実光 実長 朝清 宗清 行連 (一戸氏) (三戸氏) (八戸氏) (七戸氏) (四戸氏) (九戸氏)
その他
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 岩手県『岩手県史』 第二巻《中世篇 上》、杜陵印刷、1961年3月25日。NDLJP:3003519。(要登録)
- 七宮涬三『陸奥 南部一族』新人物往来社、1987年。ISBN 4-404-01468-6。
- 網野善彦「甲斐国御家人についての新史料」『山梨県史研究 創刊号』1993年
- 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで』新人物往来社、2007年6月10日。ISBN 4404034733。
- 網野善彦「甲斐国御家人についての新史料」『山梨県史研究 創刊号』1993年
- 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで』新人物往来社、2007年6月10日。ISBN 4404034733。
- 滝尻侑貴 著「南部師行―陸奥将軍府で重用された八戸家当主」、亀田俊和・生駒孝臣 編『南北朝武将列伝 南朝編』戎光祥出版、2021年、12-25頁。ISBN 978-4-86403-380-0。