千屋金策
千屋 金策(ちや きんさく、天保14年6月15日(1843年7月12日) - 元治2年2月22日(1865年3月19日)[1])は幕末の尊王攘夷活動家。千屋菊次郎は兄、千屋熊太郎は従弟に当たる。名は孝成。
概要
編集土佐国安芸郡和食村(現・高知県安芸郡芸西村和食)の庄屋・千屋孝則の四男として生まれ、嘉永2年(1849年)父の赴任に従って高岡郡半山郷(現・高知県津野町)に移る[2]。安政4年(1857年)から安政6年(1859年)まで船戸村(現・津野町)の戸田隆蔵に医学を学び、万延元年(1860年)4月に大坂に上って緒方郁蔵(研堂)にも学んだ。文久元年(1861年)9月に故郷に戻る[2]。同年、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加[3]。文久2年(1862年)、中岡慎太郎らと五十人組を組織し、土佐藩の江戸藩邸護衛に当たる。その後、時事探索掛を命じられて土佐に戻った[3][4]。藩論が変わって武市が捕縛されると、元治元年(1864年)5月29日に脱藩して長州に赴く[4]。禁門の変では薩摩藩・会津藩の兵と戦うが敗れて再び長州に戻る[4]。翌年、井原応輔・島浪間と共に大坂から山陰地方を遊説するが、美作国土居の関所において関守に賊と思われて争いとなり、宿所で自刃した[3][4]。
脚注
編集参考文献
編集- 森本安吉 編『高陵表忠録』青山書院、1917年。
- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1971年。
- 『幕末維新人名事典』学芸書林、1978年。