千屋菊次郎
千屋 菊次郎(ちや きくじろう、天保8年8月6日(1837年9月5日)[1] - 元治元年7月21日(1864年8月22日)[2])は幕末の尊王攘夷運動家。千屋金策は弟、千屋熊太郎は従弟に当たる。名は孝健、通称は菊次郎、栄[3]。身長が6尺余り(約180センチメートル以上)もある偉丈夫であった[1]。
概要
編集土佐国安芸郡和食村(現・高知県安芸郡芸西村和食)の庄屋・千屋孝則の三男として生まれ、嘉永2年(1849年)に父の赴任にしたがって高岡郡半山郷(現・高知県津野町)に移る[1]。
万延元年(1860年)に大坂に上って藤沢東畡から漢学を学び、翌文久元年(1861年)に伊勢に移って土井聱牙の塾にて学んだ。同年冬には土佐に帰り、武市瑞山らが結成した土佐勤王党に参加する[1]。文久2年(1862年)に武市らと上京して尊攘派の運動に携わり、同年9月23日の江州石部事件や、11月16日の多田帯刀の暗殺にも関与したとされる[3][4]。
文久3年(1863年)8月に土佐に戻るが、宮部鼎蔵と書状で交流を持ち、同年9月22日夜に上岡胆治・那須俊平・松山深蔵らと共に脱藩し、長州に渡る[3][5]。周防国三田尻の招賢閣において諸藩の尊攘派と活動に当たり、七卿の護衛も行なった[3]。三条実美の命により清岡公張と共に水戸にも赴いている[6]。元治元年(1864年)の禁門の変の際は長州藩の忠勇隊に所属し、境町御門付近にて薩摩藩・会津藩の兵と交戦した。その後は天王山に逃れ、真木保臣ら16人と共に自害した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 寺石正路『南学史』富山房、1934年。
- 『高知県人名事典』高知市民図書館、1971年。
- 『幕末維新人名事典』学芸書林、1978年。